竹森新右衛門(竹森次貞)の生涯

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎伝「竹森新右衛門(竹森次貞)の生涯」です。

■竹森新右衛門(竹森次貞)のwiki
竹森新右衛門(竹森次貞)は黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人である。武勇の持ち主だったが、左手を負傷して以降は、黒田家の旗奉行として活躍した。

■竹森新右衛門の生涯
竹森新右衛門の本名は「竹森次貞」である。竹森新右衛門は幼名を「竹森新次郎」と言い、その後「竹森新右衛門」と名乗り、晩年は「竹森石見」を名乗った。

竹森新右衛門は天文19年(1550年)に播磨(兵庫県)の井ノ口の生まれた。父親は竹森新兵衛(清原俊久)である。

竹森家は本姓は「清原」と言い、日岡神社の神官を務める家系で、広い土地を持つ豪農だった。

永禄3年(1560年)、父・竹森新兵衛の時代に敵軍の侵略を受け、子供2人が戦死。屋敷も焼かれ、使用人も逃げていなくなった。

父・竹森新兵衛は全てを失い、竹藪だけが残ったため、「竹森」と呼ばれるようになり、竹森へと改名した。

そして、父・竹森新兵衛は姫路へ出て黒田重降(黒田官兵衛の祖父)を頼り、黒田家に仕えた。

(注釈:黒田家が没落していた時代、黒田官兵衛の祖父・黒田重隆が播磨国姫路の豪農・竹森新兵衛を頼ったというエピソードは、後世の創作である。)

父・竹森新兵衛は天正4年(1576年)に死去しんだが、息子・竹森新右衛門が引き続き黒田家に使えた。

■佐用城攻め
天正5年(1577年)11月、黒田官兵衛が播磨にある佐用城を攻めた時の事である。

黒田官兵衛の元に平塚藤蔵という浪人が尋ねてきた。平塚藤蔵は以前、羽柴秀吉の家臣であったが、羽柴秀吉の勘気に触れ、浪人となり、江戸で過ごしていた武将である。

浪人・平塚藤蔵は再び羽柴秀吉に仕えようと思い、黒田官兵衛に取り次ぎを頼んだが、黒田官兵衛は「手柄が無くては、その願いは叶わないだろう」と答えた。

このとき、黒田官兵衛は佐用城を3方向から攻め、わざと開けた一方から敵が逃がす作戦を予定していた。この作戦は中国の兵法「孫子の兵法」の常道手段である。

そこで、黒田官兵衛は浪人・平塚藤蔵に「佐用城から逃げてくる武将が必ず松山を通るから、夜中に松山で待機し、逃げてくる敵を討って手柄をあげよ」と指示した。

一方、竹森新右衛門はこの噂を聞きつけ、手柄を立てるために夜中に松山へと行き、松山の小道で待機していた。

その日の夜、黒田官兵衛は予定通りに佐用城を3方向から攻めると、佐用城の兵は空いていた1方から逃げ出した。

夜明けごろ、竹森新右衛門が松山の小道で敵将を探していると、佐用城の方から馬に乗った敵将が駆けてきたので、竹森新右衛門は槍で突いて敵将2人を討取った。

この敵将は、佐用城主・福原主膳の弟・福原伊王野と、家老・祖父江左衛門であった。

竹森新右衛門は2人の首を切り、首をぶら下げて、次なる敵を探していると、近くで物音がした。

竹森新右衛門は浪人・平塚藤蔵が敵と戦っているのかと思い、音がする方へ向かうと、負傷した1人の武将が敵6~7人に囲まれていた。

負傷した武将は平塚藤蔵だったので、竹森新右衛門は手に持っていた2つの首を投げ捨て、助太刀に入った。

平塚藤蔵も敵将1人を槍で突き伏せたが、傷が重く、止めを刺すことが出来なかった。そこで、竹森新右衛門が加勢して、槍で突いた敵将に止めを刺すと、他の敵将は逃げていった。

竹森新右衛門は敵将の首を切り落とし、平塚藤蔵にその首を譲り、手柄を立てさせた。

後の首検分で、竹森新右衛門が平塚藤蔵に譲った首は、佐用城の城主・福原主膳だと判明し、その功績によって平塚為広は再び羽柴秀吉への仕官が許された。

また、羽柴秀吉は竹森新右衛門の活躍をたたえ、着ていた赤裏の羽織を脱いで竹森新右衛門に与えた。

■竹森新右衛門が旗奉行に就任したネタバレ
天正7年(1579年)、中国地方の毛利輝元の勢力に攻められ、黒田官兵衛が別府城(兵庫県加古川市別府町)に籠城したとき、竹森新右衛門は1番に城の戸口から出て行った。

城から飛び出した竹森新右衛門は、鉄砲を担いで城下へ駆け下り、敵を追いかけて柵をくぐり出ようとしたところ、敵に襲われた。

敵が上段から刀を振り下ろしたので、竹森新右衛門は持っていた鉄砲で敵の刀を受け流したが、受け流した刀は鉄砲を伝って左手に流れ、左手の左指から手首までを切られてしまった。

竹森新右衛門は左手を負傷したが、鉄砲を捨てると、刀を抜き、片手でその敵を切り捨て、首を取った。竹森新右衛門は負傷しながらも、この日の一番首を取ったため、黒田官兵衛は感心した。

天正8年(1580年)、黒田官兵衛は黒田家の旗を造り、播磨姫路の巴総社大明神の前に、中白の旗、6流を奉った(注釈:「流」は旗を数える単位です)。

このとき、黒田官兵衛は竹森新右衛門に「汝は左手が不自由なので、今後は敵と戦ってはいけない。終いには討取られてしまう。汝は敵の動きを見る才能があるので、この旗を預ける」と言い、旗奉行を命じた。

竹森新右衛門はこれまでに甲冑付きの首を18も取った有望な豪傑だったが、天正10年(1582年)に行われた「山崎の戦い(山崎合戦)」から旗奉行を務めるようになったため、以降は敵将を討つようなことな無くなった。

■城井谷城の城井鎮房
黒田官兵衛が豊前に入国したとき、城井谷城の城井鎮房が反発して一揆を起した(豊前国人一揆)。

黒田長政が城井谷城の城井鎮房を攻めたが、城井谷城は自然の要害に守られていたため、城井鎮房に敗北して命からがら逃げ帰ってきた。このとき、旗奉行の竹森新右衛門が兵士の進退を操り、何度も全滅の危機を免れた。

■朝鮮出兵
朝鮮出兵のとき、旗奉行の竹森新右衛門が敵の動きを見て部隊の進退を判断し、短時間で勝敗を決めてしまうことが度々あった。

■関ヶ原の合戦
関ヶ原の合戦のとき、竹森新右衛門は黒田長政に付き従っていたが、51歳と高齢だったため、旗奉行は毛屋主水(黒田24騎の1人)が務めた。

■筑前時代
黒田如水は筑前(福岡県)入国後、旗を増やして12流とし、竹森新右衛門に6流を任せ、毛屋主水にも6流を任せた。また、このとき、黒田如水は別に1流の旗を造り、大馬印とした。

[注釈:黒田24騎の毛屋主水(毛屋武久)の生涯については、「毛屋主水(毛屋武久)の生涯」をご覧ください。]

■黒田忠之の幼名を名付ける
慶長7年(1602年)11月9日、黒田長政に嫡子・黒田忠之が生まれた。このとき、竹森新右衛門 の妻は乳が出たので、黒田忠之に乳を与えた(注釈:このとき、竹森新右衛門は53歳である)。

また、黒田長政は、竹森新右衛門と吉田六郎太夫(共に黒田24騎)の2人に、生まれた嫡子・黒田忠之の幼名の名付けを命じた。

竹森新右衛門と吉田六郎太夫の2人は、恐れ多いこととして、丁重に辞退したが、黒田長政は辞退を認めないため、2人は黒田忠之の幼名を「満徳君」と名付けた。

慶長7年(1602年)、黒田長政は旗を8流増やして計20流とすると、大馬印の旗をあせたた計21流を竹森新右衛門に任せ、3000石を与えた。

元和7年(1621年)11月9日、竹森新右衛門は病死した。享年72歳だった。ちなみに、死亡日の11月9日は、福岡藩の2代目藩主・黒田忠之の誕生日である。

■竹森貞幸
竹森新右衛門の嫡子・竹森貞幸は、朝鮮出兵で初陣を果たし、首5つを取る活躍をした。しかし、同僚と口論に成り、刀を抜いたため、黒田家を追放となった。

しかし、関ヶ原の合戦のとき、嫡子・竹森貞幸は黒田長政の元に駆けつけ、従軍を許され、黒田家に復帰した。父・竹森新右衛門の引退後、嫡子・竹森貞幸が旗奉行を引き継いだ。

その他の黒田家の家臣のあらすじとネタバレについては、「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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