小寺官兵衛が黒田長政を人質に出す
の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺官兵衛が黒田長政を人質に出す」です。
このページは「軍師・黒田官兵衛の英賀合戦」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください
■織田信長の野望-中国征伐の発動
天正4年(1576年)、織田信長は、琵琶湖の東側にある滋賀県近江八幡市安土町に、安土城を完成させ、安土城を居城とし、天下統一へと向けて着実に進んでいた。
「長篠の戦い」で武田勝頼の軍を撃破した織田信長は、虎視眈々と天下を狙う越後(新潟県)の上杉謙信を封じるため、柴田勝家を北陸へ投入しする(北陸戦線)。
このとき、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、柴田勝家の下で働いていたが、柴田勝家とことごとく意見が対立したため、独断で戦線を離脱してしまう。
このため、羽柴秀吉は織田信長から烈火のごとく怒りを買い、謹慎処分を受けてしまった。
謹慎処分を受けたため、羽柴秀吉は表だって播磨(兵庫県)攻略に乗り出すことは出来なかったが、中国討伐を見据えて、家臣の蜂須賀正勝などを播磨に差し向け、黒田官兵衛と共に播磨の調略に当たらせたのである。
■織田信長が中国征伐を発動
英賀合戦で黒田官兵衛に大敗した毛利輝元は、武力侵攻から調略へと方針を転換し、播磨の豪族を取り込むために調略を始めると、織田信長に属した播磨の豪族が動揺し始めた。
織田信長は傲慢な男で、ひとたび織田信長の怒りを買えば、家族や部下でも命は無く、部下は誰一人として安堵してない、という噂は播磨にも届いていたのだ。
毛利輝元の工作により、播磨の情勢が不安定になってきたため、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は羽柴秀吉に手紙を送って中国征伐を要請し、羽柴秀吉は織田信長に中国征伐の発動を求めた。
小寺官兵衛からの要請を受けた織田信長は、時期を前倒しして中国征伐を決定。謹慎していた羽柴秀吉に中国征伐を命じるとともに、黒田官兵衛に播磨各地の豪族から人質を集めるように命じた。
■黒田長政を人質に送る
織田信長から命令を受けた小寺官兵衛は、播磨の豪族から人質を集める一方で、御着城の城主で主君の小寺政職にも人質を求めたが、主君・小寺政職や重臣は人質を出し渋った。
小寺政職の嫡男・小寺氏職は馬鹿だったため、嫡男・小寺氏職を人質に出せば、小寺政職や重臣は織田信長の怒りを買うのでは無いかと心配したのである。
そこで、小寺官兵衛は1人息子の松寿(後の黒田長政)を人質に出す事を申し出た。小寺政職は小寺官兵衛の申し出に喜び、小寺官兵衛が嫡子・松寿(黒田長政)を人質として差し出す事になった。
小寺官兵衛は妻・櫛橋光と結婚した翌年に嫡子・松寿(黒田長政)が誕生したが、それ以降、子供は産まれておらず、松寿(黒田長政)が唯一の子供であった。
その松寿(黒田長政)を人質に出す事を決めた小寺官兵衛は、姫路城に戻ると、妻・櫛橋光に事情を説明し、「すまぬ。松寿(黒田長政)を人質に出すことになった」と謝罪した。
すると、妻・櫛橋光は「それほど、人質のお役目は危険なのですか。危険なのであれば、貴方様が人質になればよろしいのです。私は赤飯を炊いて松寿(黒田長政)をお役目に送り出します」と答えた。
小寺官兵衛は妻・櫛橋光の言葉で、「そうであった。自分が播磨を取り纏めれば、人質の松寿(黒田長政)に危険が及ぶことは無い」と気づき、今回の任務に望んだという。
その後、小寺官兵衛や蜂須賀正勝の活躍により、播磨の各地から集まった人質は、摂津(大阪府)にある有岡城の荒木村重に預けられた。
一方、小寺官兵衛は安土城へ行き、織田信長に拝謁して、人質として松寿(黒田長政)を差し出すと、織田信長は黒田官兵衛に羽柴秀吉の与力として中国征伐の先鋒を務めることを命じた。
さて、人質となった松寿(黒田長政)は、羽柴秀吉が預かることになり、羽柴秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)で人質生活を送る。
このとき、羽柴秀吉の正室「おね(後の北政所)」には子供が居なかったので、黒田長政は正室「おね」にとても可愛がられた。
なお、松寿(黒田長政)の近習として黒田家から井口兵助と大野九兵衛も長浜城に送られ、2人は松寿(黒田長政)に仕えた。このとき、黒田長政が8歳で、井口兵助は13歳だった。
後に井口兵助は黒田家の問題児となるが、黒田長政と人質時代を共に過ごしたため、黒田長政と井口兵助の2人は非常に仲が良かった。
(注釈:井口兵助のあらすじとネタバレについては、「井口兵助(村田吉次)の生涯」をご覧ください。)
■羽柴秀吉の姫路城入り
天正5年(1577年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、中国征伐隊の総大将・羽柴秀吉が7500の軍勢を率いて播磨へ入ると、小寺官兵衛は羽柴秀吉を出迎え、居城の姫路城を明け渡した。
小寺官兵衛は姫路城を丁寧に掃除し、明け渡しに目録まで作っており、手際の良さに感心した羽柴秀吉は黒田官兵衛を姫路城の二の丸に留め置き、膝をつき合わせて中国征伐について意見を交わした。
そして、羽柴秀吉が姫路城へ入ると、小寺官兵衛は使者を送って東播磨の豪族や大名を次々と説き伏せ、無傷で東播磨を支配下に置く。
しかし、西播磨は中国の毛利に近いため、毛利の影響を受けており、調略で西播磨を落とすことは難しく、武力討伐が必要であった。
■羽柴秀吉と義兄弟の誓い
一方、御着城の小寺政職は織田信長に従属したものの、一転して毛利方に寝返ってしまい、羽柴秀吉が姫路城に入ったにもかかわらず、挨拶にも来ないという異常事態が続いていた。
異常を感知した羽柴秀吉は、小寺官兵衛に「ワシがこの地を納めるには、貴殿に指図を受けなければならない。2人の間に疑いがあってはならないから、義兄弟の契りを結ぼう」と言い、2人は義兄弟の誓紙を交わした。
義兄弟の誓紙には、羽柴秀吉が黒田家の安泰を約束する意味が有り、小寺官兵衛は誓紙を大切に保管した。
その後、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛は、羽柴秀吉と義兄弟の誓紙を交わしたという噂を聞きつけると、小寺官兵衛に「誓紙を見せて欲しい」と頼んだ。
小寺官兵衛が大切にしまっておいた誓紙を竹中半兵衛に渡すと、竹中半兵衛は誓紙を火鉢に捨てて燃やしてしまった。
小寺官兵衛が竹中半兵衛の暴挙に驚くと、竹中半兵衛は「こんな紙切れ一枚で、約束が違う、などと不満を言っては、お主のためにならない。」と忠告した。
すると、小寺官兵衛は「紙一枚で大切なものを見誤るところであった」と言い、竹中官兵衛に感謝したという。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「竹森新右衛門と生田木屋之介の佐用城攻め」へ続く。