竹森新右衛門と生田木屋之介の佐用城の戦い
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「竹森新右衛門と生田木屋之介の佐用城の戦い」です。
このページは「小寺官兵衛が黒田長政を人質に出す」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■播磨の状況
小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略により、東播磨(兵庫県)で最大の勢力を誇る三木城の城主・別所長治も織田信長に従属し、東播磨を無血で平定した。
しかし、西播磨では龍野城の城主・赤松広秀が織田信長側に属していたものの、備前・美作(岡山県)との国境にある佐用城と上月城は、織田信長側に付くことを拒否し続けた。
備前・備中・美作の3国(3国とも岡山県)を支配する宇喜多直家が西播磨にまで勢力を伸ばしており、佐用城と上月城を支配下に置いて居たのだ。
(注釈:宇喜多直家は毛利輝元に属しているので、西播磨の佐用城と上月城は毛利側の勢力になる。)
このため、羽柴秀吉は、佐用城と上月城に兵を向け、武力による東播磨の平定に乗り出したのである。
■小寺官兵衛の佐用城攻め
天正5年(1577年)11月26日、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛と協力して、福原主膳(福原則尚という説もある)が守る西播磨の佐用城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻めた。
軍師・小寺官兵衛は佐用城を3方向から取り囲み、1方向だけ逃げ道として開けて、総攻撃を開始する作戦に出た。
逃げ道を無くすと、敵も必死に抵抗するため、味方の損害が増える。しかし、逃げ道を残して攻撃すれば、敵は抵抗せずに逃げるため、味方の被害も少ない。逃げ道を開けて攻めるのは、「孫子の兵法」の常道手段である。
小寺官兵衛は佐用城を3方向から攻め立てると、佐用城の城主・福原主膳は、黒田官兵衛の思惑通り、包囲されていない1方向から逃げ出した。
さて、佐用城の城主・福原主膳が逃げ出した方向には、松山という山があり、その松山には浪人・平塚藤蔵(後の平塚為広)が、佐用城の城主・福原主膳が逃げてくるのを今や遅しと待ち構えていた。
小寺官兵衛は孫子の兵法を活用しただけでなく、孫子の兵法を応用しており、佐用城の城主・福原主膳が逃げ出した方向に、浪人・平塚藤蔵を配置していたのである。
■竹森新右衛門と平塚藤蔵
平塚藤蔵(後の平塚為広)は元々、羽柴秀吉に仕えていたが、羽柴秀吉の勘気に触れたため、浪人となり関東で暮らしていた。
しかし、再び羽柴秀吉に仕えるため、播磨(兵庫県)を訪れ、黒田官兵衛に羽柴秀吉への取り次ぎを頼んだ。
事情を聞いた黒田官兵衛は「手柄が無くては、その願いは叶わないだろう」と言い、平塚藤蔵に「佐用城から逃げてくる武将が必ず松山を通るから、夜中に松山で待機し、逃げてくる敵を討って手柄をあげよ」と指示した。
こうして、平塚藤蔵は黒田官兵衛の指示通り、佐用城攻めが行われる日の深夜、佐用城の背後にある松山で待機し、逃げてくる敵将を待ち構えたのである。
■竹森新右衛門の佐用城攻め
さて、このとき、黒田家の下僕・竹森新右衛門(別名は竹森次貞)も、松山の小道で佐用城から逃げてくる敵を待ち構えていた。
(注釈:竹森新右衛門のあらすとネタバレについては、「竹森新右衛門(竹森次貞)の生涯」をご覧ください。)
竹森家は本姓を「清原」と言い、日岡神社の神官を務める家系だったが、父・竹森新兵衛の時代に敵の侵略を受け、子供や使用人や屋敷を失い、竹藪だけが残った。
父・竹森新兵衛は竹藪だけが残ったため、「竹森」と呼ばれるようになり、姓を「竹森」へと改めた。そして、父・竹森新右衛門は黒田重降(黒田官兵衛の祖父)を頼り、黒田家の下僕となっていた。
(注釈:父・竹森新兵衛は、姫路で落ちぶれていた黒田重降に家を貸した豪農として有名だが、黒田重降に家を貸した話は創作である)
そして、息子の竹森新右衛門も父・竹森新兵衛に続いて小寺官兵衛(黒田官兵衛)に下僕として仕えていた。
佐用城攻めのとき、竹森新右衛門は、浪人・平塚藤蔵が松山で佐用城から逃げてくる敵を討取るという話を聞きつけ、平塚藤蔵に便乗して手柄をあげるため、密かに松山の小道で敵が逃げてくるのを待ち構えていた。
その日の夜中、竹森新右衛門が松山の細道で敵将を待っていると、佐用城の方から雄叫びが聞こえてきた。小寺官兵衛(黒田官兵衛)が作戦通り、3方から佐用城を一斉に攻め立てたのだ。
■生田木屋之介の佐用城攻め
そのころ、佐用城では、小寺官兵衛の家臣・生田木屋之介(いくたきやのすけ)が、佐用城の城内に攻め込んでいた。
(注釈:生田木屋之介のあらすじとネタバレについては、「生田木屋之介(いくた・きやのすけ)の生涯」をご覧ください。)
佐用城攻めの作戦は事前に知らされていたので、生田木屋之介は、昨夜のうちに佐用城へ忍び寄り、小さなノコギリで、城塀の柱の根元に切れ目を入れていた。
そして、佐用城攻撃の当日、生田木屋之介は根元を切った柱に吊り縄をかけて城塀を引き倒し、難なく城内へと攻め込んだのである。
■竹森新右衛門の活躍
さて、明け方になり、竹森新右衛門は松山の細道で敵兵を探していると、佐用城の方角から、馬が走る音が聞こえてきた。竹森新右衛門は佐用城から逃げてきた武将だと確認すると、槍で突いて、敵将2人を殺した。
この2人は、佐用城主・福原主膳の弟・福原伊王野と、家老・祖父江左衛門だった。
竹森新右衛門は討取った2人の首をちょん切り、2つの首をぶら下げ、次の敵を探していると、近くで物音がした。平塚藤蔵かと思って音のする方へ向かうと、負傷した武将が敵将6~7人に囲まれていた。
負傷した武将は平塚藤蔵だったので、竹森新右衛門は手に持っていた2つの首を投げ捨て、助太刀に入った。
平塚藤蔵は槍で突いて敵将1人を負傷させたが、平塚藤蔵も負傷しているため、とどめを刺せなかった。そこで、竹森新右衛門が代わりに止めを刺して首を切り落とし、その首は平塚為広に譲った。
後の首検分で、竹森新右衛門が平塚藤蔵に譲った首が、佐用城の城主・福原主膳だと判明し、その功績によって平塚為広は再び羽柴秀吉への仕官が叶った。
竹森新右衛門は城主の弟・福原伊王野と家老・祖父江左衛門の2人を討取った功績が認められ、下僕から士分へと出世した。
また、羽柴秀吉は首を譲った功績を称え、着ていた赤裏の羽織を脱いで竹森新右衛門に与えた。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が佐用城を攻め落としたのは天正5年(1577年)11月、小寺官兵衛が32歳のことであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「軍師・黒田官兵衛の上月城の戦い」です。