軍師・黒田官兵衛-上月城の戦い

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「竹森新右衛門と生田木屋之介の佐用城の戦い」です。

このページは「竹森新右衛門と生田木屋之介の佐用城の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■軍師・黒田官兵衛-上月城の戦い
天正5年(1577年)11月29日、家臣・生田木屋之介の活躍により、佐用城を落とした小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、続いて、上月景貞が守る上月城を(兵庫県佐用郡佐用町)攻めた。

(注釈:上月城の城主は、赤松政範だったという説もあるが、ここでは上月景貞説を採用しておく。)

上月景貞は上月城に籠城しており、羽柴秀吉の軍が上月城を包囲していると、備前・備中・美作の3国(3国とも岡山県)を支配する毛利側の宇喜多直家の援軍が到着した。

宇喜多直家の軍は羽柴秀吉軍を外巻きに包囲し、羽柴秀吉は上月景貞と宇喜多直家とに挟まれ、劣勢に立たされた。

上月城に籠城していた上月景貞は、これを好機とみると、上月城から打って出た。

羽柴軍の先鋒・別所重棟は、上月景貞軍の先鋒を防ぎきれずにピンチを迎える。

すると、小寺官兵衛は手勢を率いて出陣し、先鋒・別所重棟を助け、上月景貞軍の先鋒を押し返した。

しかし、上月景貞はすぐさま第2陣を差し向け、先鋒隊と入れ替わるように第2陣が小寺官兵衛の部隊を攻撃した。

これを見た羽柴秀吉は「小寺官兵衛を討たすな」と命じ、羽柴秀吉の本陣の2部隊を投入。小寺官兵衛は援軍を得て勢いづき、敵軍を退けた。

羽柴秀吉は、上月景貞を上月城に押し返すと、背後に居る宇喜多直家を攻撃し、宇喜多直家を撃退した。

小寺官兵衛の活躍に満足した羽柴秀吉は、小寺官兵衛に秘蔵の名馬を与え、諸将に「良い馬が欲しければ、小寺官兵衛のように手柄をあげよ。この秀吉は物惜しみはせんぞ」と言い、士気を鼓舞した。

(ちなみに、黒田官兵衛は倹約家で、後に「高い馬には乗るな。戦場で馬を下りたとき、馬の行方が気になっていては、戦に集中できない。馬は乗り捨てられる安い馬にしろ」と話している。)

■上月城を包囲
さて、上月城を包囲し羽柴秀吉側は、家臣・生駒親正の活躍により、上月城の水補給路を絶った。

水が無いと籠城できないため、城兵は謀反を起こし、城主・上月景貞の首を差し出して羽柴秀吉に降服を願い出た。

しかし、羽柴秀吉は謀反を起して降服してきた城兵を許さず、城兵が逃げられないように上月城の城門を外側から封印したうえで、上月城を攻め立てて城兵を皆殺しにした。

さらに、羽柴秀吉は上月城の女・子供を捕らえて、毛利側との国境で、女は磔にして殺し、子供は槍でついて殺して見せしめとした。このとき、200人ほどの女・子供(非戦闘員)が処刑された。

こうして上月城が落ちると、織田信長は、尼子家の復興に命を賭ける山中鹿之助に上月城を与えた。

尼子家は出雲の守護大名であったが、毛利元就に侵略され、領土を奪われた。尼子家の軍師・山中鹿之助は尼子勝久を擁立して、尼子家の復興に奔走し、織田信長を頼っていた。

山中鹿之助は織田信長から上月城を与えられ、念願の尼子家の復興を成し遂げたのである。

織田信長にしてみれば、尼子家にとって毛利家は宿敵なので、尼子勝久や山中鹿之助なら命を賭けて毛利軍と戦い、また絶対に毛利側に寝返らないという狙いがあった。

さて、上月城を落として播磨(兵庫県)を平定した羽柴秀吉は、上月城を山中鹿之助に任せると、織田信長に報告するため、安土城へと凱旋した。

織田信長は羽柴秀吉の播磨平定を大いに喜び、羽柴秀吉に愛用の乙御前の茶釜や領地を与えた。羽柴秀吉はそのまま安土城に留まり、安土城で天正6年(1578年)の正月を迎えた。

天正6年(1578年)、小寺官兵衛(黒田官兵衛)33歳の幕開けであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の野望」のあらすじとネタバレ播磨編「三木城の城主・別所長治の裏切り」へ続く。

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■上月城、女子供虐殺の真実さんへ
上月城で行われた磔の刑の解説をありがとうございます。ただ、説明に残虐な文章が含まれるため、申し訳ございませんが、コメントは非公開とさせて頂きます。

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