軍師・黒田官兵衛-阿閉城(別府城)の戦い

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「阿閉城(別府城)の戦い」です。

このページは「三木城の城主・別所長治の裏切りのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■毛利来襲-阿閉城の戦い
天正6年(1578年)4月1日、海路を進んだ毛利軍8000人は、東播磨の別府(兵庫県加古川市)上陸すると、別所重棟の居城・阿閉城(あべじょう)を取り囲んだ(阿閉城の戦い)。

[注釈:阿閉城(あべじょう)ではなく、阿閇城(あえじょう)や別府城とする説もあるが、ここでは阿閉城とする。]

東播磨で三木城の城主・別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と阿閉城の城主・別所重棟の2人だけだった。

このため、中国の毛利輝元は、阿閉城と加古川城を落とし、三木城の別所長治と協力して西播磨の姫路へと侵攻する算段であった。

さて、この阿閉城には小寺官兵衛(黒田官兵衛)が500人の手勢を率いて援軍に駆けつけていた。

阿閉城に籠もる小寺官兵衛は、家臣に「この城が要害でないことが幸いしている。敵は大軍に頼んで、鉄砲用の盾も持たずに、攻め込んでくるだろう。我らは反撃せずに敵を十分に引きつけ、鉄砲が外れない距離まで来たら、一気に鉄砲を撃つ。弓鉄砲を持っていない者は、石を投げよ。私は櫓に上り、敵が鉄砲に恐れを成した頃に、合図を送るから、合図があれば、城門を開けて打って出よ。そうすれば、敵は大崩れするであろう」と命じた。

やがて、毛利軍が阿閉城への攻撃を開始したが、阿閉城は要害ではなかったため、毛利軍は大軍を頼りにして、鉄砲用の盾も付けずに、通常の盾を並べて阿閉城へと押し寄せた。

阿閉城の兵は小寺官兵衛の命令通り、息を潜めており、毛利軍が城壁近くまで来たところで、一斉掃射を始めた。毛利軍は鉄砲用の縦を持ってきていなかったので、一斉掃射によって多くの兵士を失った。

さらに、頃合いを見て小寺官兵衛が太鼓を鳴らすと、小寺官兵衛の手勢が城門を開いて打って出た。

毛利軍は鉄砲で死傷した者も多く、小寺官兵衛の手勢を防ぐことが出来ず、一戦もすると無く総崩れとなり、敗走した。小寺官兵衛の手勢は毛利軍を追撃し、散々と討取った。

阿閉城の戦いでの活躍を聞いた織田信長は、大いに喜び、羽柴秀吉に馬を与えた。羽柴秀吉は「今回の手柄は小寺官兵衛のものである」と言い、この馬を小寺官兵衛に与えた。小寺官兵衛は「戦功は母里太兵衛によるものである」と言い、この馬を母里太兵衛に与えた。

■明石左近と梶原景行の降服
小寺官兵衛が毛利の大軍を退けた話が広まると、三木城主・別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した高砂城の城主・梶原景行と明石城の城主・明石左近の2人が小寺官兵衛に降った。

小寺官兵衛は梶原景行と明石左近を羽柴秀吉の元へ連れて行くと、羽柴秀吉はこれを大いに喜んだ。

一方、陸路から播磨へと侵攻した毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、5万の大軍で西播磨の上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を包囲していた。

(注釈:毛利家を代表する吉川家と小川家を総称して「毛利両川」または「毛利二川」と呼ぶ。)

尼子勝久を擁する軍師・山中鹿之助は、織田信長から上月城を拝領し、念願の尼子家の復興を成しとけたが、宿敵・毛利の大軍に包囲され、尼子家の運命は風前の灯火となっていた。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の野望」のあらすじとネタバレ播磨編「第2次・上月城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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