軍師・黒田官兵衛-第2次・上月城の戦い
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「第2次・上月城の戦い」です。
このページは「軍師・黒田官兵衛-阿閉城(別府城)の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■第2次・上月城の戦い
天正6年(1578年)4月、毛利軍の吉川元春と小早川隆景が率いる5万の大軍が、西播磨(兵庫県)にある上月城を包囲した。
西播磨の最西端にある上月城は、中国征伐の最前線でもあり、羽柴秀吉にとっては重要な城だった。
東播磨では、東播磨最大の勢力で三木城の城主・別所長治が突如として毛利側に寝返っており、羽柴秀吉は三木城攻めの最中であったが、中国征伐の要所となる上月城を見捨てるわけにはいかなかった。
羽柴秀吉は直ぐさま織田信長に援軍を要請すると、摂津の荒木村重と合流し、小寺官兵衛(黒田官兵衛)と共に1万の兵を率いて上月城へ援軍に向かい、高倉山に布陣した。
対する毛利軍は5万という大軍だったので、軍を2手に分け、1方で上月城を包囲し、もう1方で羽柴秀吉の軍勢に対応した。羽柴秀吉の軍勢は毛利軍と小競り合いを続けるが、勝敗は付かず、膠着状態に陥った。
■織田信長に親征を要請
天正6年(1578年)6月、羽柴秀吉は毛利軍との膠着状態を打破するため、密かに京都へ上り、織田信長に上月城への親征を仰いだ。
しかし、織田信長は羽柴秀吉に「上月城の援軍を引き払い、神吉城と志方城を攻め落とし、三木城を包囲せよ」と命じた。
羽柴秀吉は織田信長の命令に逆らうことが出来ず、天正6年(1578年)6月、上月城に差し向けた援軍を引き上げ、書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)へと戻り、三木城攻めを再開する。
このとき、羽柴秀吉は上月城に居る山中鹿之助に使者を送り、脱出するように促したが、山中鹿之助は「自分1人だけであれば脱出できるが、全員を連れて脱出することは出来ない」と言い、上月城に残ったという。
■櫛橋左京進の切腹
一方、織田信長は羽柴秀吉の要請を受けて織田信忠を総大将する援軍を三木城へ差し向けるが、羽柴秀吉に手柄をあげさせるのを嫌う武将が多かったため、織田信忠の援軍は積極的には戦わなかった。
しかし、織田信長の命令により、織田信忠の援軍が神吉城と志方城への攻撃を開始する。籠城していた神吉城の城主は、大軍を防ぎきれなくなり、切腹して開城した。
神吉城が落ちると、志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)も兵士の助命と引き替えに、切腹して開城した。櫛橋左京進は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の妻・櫛橋光の兄である。
なお、櫛橋左京進は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の嘆願によって命を助けられたとも伝わっている。その後、櫛橋氏は黒田家の家臣となった。
■河村新左衛門が山中鹿之助を暗殺
さて、上月城で籠城する山中鹿之助らは、羽柴秀吉の援軍が撤退後も籠城を続けていた。
天正6年(1578年)7月、上月城は3ヶ月に渡る籠城を耐え抜いたが、尼子勝久ら一族の自刃を条件に兵士の助命が認められたため、尼子勝久は降服を決定する。
城主・尼子勝久は軍師・山中鹿之助に「一時なりとも大将にしてくれたことを感謝する」と感謝し、尼子一族とともに自害して、上月城を開城したという。
尼子家の復興に奔走した山中鹿之助は自刃せずに捕虜となるが、安芸へ護送される最中に毛利の刺客・河村新左衛門によって殺害された。
山中鹿之助は、尼子勝久に尼子家の復興を託されて捕虜になったとも、吉川元春を暗殺するために捕虜になったとも伝わる。
しかし、毛利の刺客・河村新左衛門に暗殺されたため、尼子家の復興はここで途絶えた。
■宇喜多直家の動向
さて、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家は、病気と称して第2次・上月城の戦いには参加しておらず、次男・宇喜多忠家を派遣していた。
上月城を落とした毛利軍は、宇喜多直家が織田信長に寝返ると、播磨へと侵攻した毛利軍は退路を断たれるため、東へと侵攻せず、本国へと引き揚げた。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の野望」のあらすじとネタバレ播磨編「三木城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。