櫛橋左京進(櫛橋伊定)の生涯

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの登場人物編「櫛橋左京進(櫛橋伊定)の生涯」です。

■櫛橋左京進(櫛橋伊定)のwiki
櫛橋左京進(櫛橋伊定)は戦国時代の武将で、志方城(兵庫県加古川市志方町)の城主である。娘の櫛橋光(光姫)が、黒田官兵衛(黒田如水)と結婚しており、櫛橋左京進は黒田官兵衛の義理の父にあたる。

■櫛橋家の由来
櫛橋家は相模国大住郡櫛橋郷(神奈川県伊勢原市串橋)を本拠とする御家人で、鎌倉時代に播磨(兵庫県)へ来て土着した。

櫛橋家は南北朝時代に播磨の赤松家に仕え、赤松家の台頭に貢献した。赤松家は播磨守護職として播磨を支配したが、浦上家の下克上によって赤松家が衰退すると、櫛橋家は独立し、志方城を中心に勢力を誇った。

■櫛橋左京進(櫛橋伊定)の生涯あらすじ
戦国時代、櫛橋左京進(櫛橋伊定)は、父親・櫛橋伊家から家督を継ぎ、志方城の城主となる。

志方城の城主・櫛橋左京進は、東播磨で勢力を誇る御着城の城主・小寺政隆の娘と結婚し、播磨での基板を強化した。

天文22年(1553年)、櫛橋左京進(櫛橋伊定)に娘・櫛橋光(光姫)が誕生する。

永禄10年(1567年)、御着城の城主・小寺政職が櫛橋光(光姫)を養女とし、小寺家の家臣・黒田官兵衛と結婚させた。[注釈:櫛橋光(光姫)は城主・小寺政職の姪にあたる。]

櫛橋左京進(櫛橋伊定)はこの結婚に際し、黒田官兵衛に銀白檀塗合子形兜を贈ったという伝承が残っている。この銀白檀塗合子形兜は、黒田官兵衛の代名詞と成り、「如水の赤合子」と呼ばれて戦場で恐れられたという。

その後、織田信長が播磨に進出してきたさい、志方城の城主・櫛橋左京進も織田信長に属し、羽柴秀吉によって播磨は平定された。

しかし、天正6年(1578年)2月、東播磨で最大の勢力を誇っていた三木城の城主・別所長治が、突如として織田信長に反旗を翻すと、東播磨のほとんどの豪族が別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した。

このとき、東播磨にある志方城の城主・櫛橋左京進も、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した。

このため、織田軍・織田信忠の軍勢が、東播磨の神吉城と志方城を攻撃する(この戦いに黒田官兵衛は参加していないので、櫛橋左京進と黒田官兵衛は戦っていない)。

志方城の城主・櫛橋左京進は籠城して織田軍に対抗したが、神吉城が落城すると、志方城の城主・櫛橋左京進は織田軍に降伏した。

このとき、櫛橋左京進は兵士の助命を条件に切腹して開城したとも、黒田官兵衛の助命嘆願により、助命されたとも伝わっており、詳しいことは話なら無い。

■櫛橋光
黒田官兵衛(黒田如水)と結婚した櫛橋光は、永禄11年(1568年)に嫡子・黒田長政を出産し、天正10年(1582年)頃に次男・黒田熊之助を出産した。

慶長2年(1597年)7月、黒田熊之助は朝鮮出兵のとき、豊前国の居城・中津城で留守をしていたが、朝鮮に渡った黒田官兵衛・黒田長政の陣に参加するため、密かに出航したが、玄界灘で暴風雨に遭い、溺れ死んだ。

嫡子・黒田長政は関ヶ原の合戦で活躍し、筑前(福岡県)を拝領し、福岡藩(黒田藩)の初代藩主となった。

黒田官兵衛に関する情報は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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櫛橋でググると学者さんが何人かヒットしますね
賢い血統なのかしらん

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