花森安治の生涯-大橋鎮子(大橋鎭子)と出会う

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」のモデルとなる大橋鎮子(大橋鎭子)の生涯を描く実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の花森安治編「花森安治の生涯-大橋鎮子(大橋鎭子)と出会う」です。

このページは「花森安治の生涯-妻・山内ももよと結婚のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」の目次は「とと姉ちゃん 大橋鎮子(大橋鎭子)と花森安治の生涯」をご覧ください。

■前回のあらすじとネタバレ
昭和8年(1933年)に東京帝国大学に進学した花森安治は、帝国大学新聞に入社。そして、昭和8年の夏に妻「山内ももよ」と出会い、交際に発展する。

妻・山内ももよの実家は島根県松江市でも有名な老舗の呉服問屋「山内呉服店」で、花森安治は妻・山内ももよの両親に結婚を反対されてしまう。

しかし、旧姓松江高校(島根大学)の教授・加藤恂二郎(加藤与次兵衛)が妻・山内ももよの両親を説得してくれたので、花森安治は妻・山内ももよと結婚する事が出来た。

花森安治と妻・山内ももよは、昭和10年(1935年)10月18日に東京・赤坂にある日枝神社で結婚式を挙げ、東京・牛込箪笥町の借家で新婚生活を開始する。

昭和11年(1936年)、花森安治は単位を落として卒業できなかったため、4年目の大学生活を送ることになる。

昭和11年(1936年)、妻・山内ももよのお腹が大きくなってきたのでお金が必要になったのか、化粧品メーカー「伊東胡蝶園」の宣伝部に在籍する画家・佐野繁次郎の面接を受け、伊東胡蝶園の宣伝部で働き始める。

昭和11年(1936年)12月26日に婚姻届けを提出。昭和12年(1937年)の春に花森安治は東京帝国大学を卒業し、入籍から4ヶ月後の昭和12年4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれた。

■花森安治の伊東胡蝶園時代

昭和12年(1937年)に東京帝国大学を卒業した花森安治は、引き続き、画家・佐野繁次郎に師事して伊東胡蝶園の宣伝部で働き、画家・佐野繁次郎から多くを学んでいった。

画家・佐野繁次郎は実務を手がけ、キャッチコピーやレイアウトは花森安治が考えていたという。

このころから、花森安治は、優しい言葉で語りかけるというキャッチコピーの手法を確立しており、キャッチコピーやレイアウトは彼の独擅場(どくせんじょう)であった。

さらに、花森安治は、画家・佐野繁次郎の独特の手書き文字を吸収していき、雑誌「暮しの手帖」で見せる花森安治スタイルの基礎を築いていく。

ところが、昭和12年7月に日中戦争が勃発する。

これを受けて画家・佐野繁次郎は、昭和12年8月にフランス留学に旅立ってしまう。さらに、花森安治も昭和13年1月に招集を受け、満州へ行くことなった。

花森安治は昭和13年に満州へと渡ったが、現地で結核に感染してしまう。花森安治は、現地の兵士に後ろめたさを感じながら病院船で帰国し、和歌山にある陸軍病院で療養する。

このころ、花森安治は兵士としての給料と伊東胡蝶園からも給料をもらっていた。そして、妻・山内ももよは松江の実家に帰っていたので、妻・山内ももよがお金に困るという事は無かったようだ。

さて、花森安治は、昭和14年(1939年)に退院して化粧品メーカー「伊東胡蝶園(パピリオ)」の宣伝部に復帰する。

フランスに留学していた画家・佐野繁次郎は、ヨーロッパの情勢悪化を受けて既に帰国し、伊東胡蝶園に復帰していた。

このため、花森安治は、再び伊東胡蝶園(パピリオ)の宣伝部で、画家・佐野繁次郎と仕事をする。

しかし、化粧品を取り巻く環境は悪化の一途をたどっていた。

前年の昭和13年に国家総動員法が発動され、日本は戦争に勝つため、物資を軍事産業に集中しており、化粧品を作る物資が不足していた。

また日本政府は国民に質素倹約を推奨しており、国民が化粧品を買うような時代ではなかった。

そこで、花森安治と佐野繁次郎は、設立されて間もない出版社「生活社」から、昭和15年(1940年)に伊東胡蝶園の広報誌「婦人の生活」を出版する。

この広報誌「婦人の生活」が、後の「暮しの手帖」の前身となる。

そのようななか、昭和15年(1940年)7月7日に「奢侈品等製造販売制限規則」(通称「7・7禁止令」「贅沢禁止令」)が発令され、不要品や贅沢品の製造販売が禁止された。

さらに、昭和15年(1940年)12月には、出版物を検閲して紙の配給を決定する国策機関「日本出版文化協会」が発足する。

こうした出版業界・広告業界を取り巻く環境の悪化を受け、多くの広告マンや編集員は、商品の広告や本の出版以外に活動の場を求め、戦争のプロパガンダとして活躍していくことになる。

たとえば、花森安治と同年に東京帝国大学を卒業した杉森久英は、中央公論社の編集部で働いていたが、出版業界を取り巻く環境の悪化を受け、中央公論社を退社して、政府機関「大政翼賛会」の興亜局企画部に入った。

杉森久英という名前に聞き覚えのある人は、かなりのドラマ通だろう。杉森久英は、後の直木賞作家で、TBSのドラマ「天皇の料理番」の原作者である。

(注釈:実話「天皇の料理番」のあらすじとネタバレは「実話・天皇の料理番-あらすじとネタバレ」をご覧ください。)

さて、大政翼賛会は、近衛文麿総理の元で新体制・一国一党体制を実現するために、国民を統制する国策機関である。

日本は日中戦争に突入しており、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発していた。こうした戦時下において大政翼賛会は国民の期待を背負い、国民に歓迎される形で発足した。

国民は大政翼賛会に漠然とした期待感を抱いており、大政翼賛会は給料が良かったので、活動の場を失った多くの編集者や宣伝マンが大政翼賛会に集まってきた。

こうした状況のなか、花森安治も昭和16年(1941年)の春に伊東胡蝶園(パピリオ)を退社して、国策機関「大政翼賛会」の宣伝部に就職した。

花森安治が大政翼賛会の宣伝部に入った経緯は不明だが、帝国大学新聞時代の先輩・富久達夫(当時は大政翼賛会の宣伝部長)に誘われて大政翼賛会の宣伝部に入ったと言われている。

そして、花森安治が大政翼賛会に就職した年(昭和16年)の12月に日本は真珠湾攻撃を行い、第二次世界大戦に参戦するのである。

昭和16年(1941年)、花森安治が30歳、大橋鎮子(大橋鎭子)が21歳の事である。

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■欲しがりません勝つまでは

昭和17年(1942年)に大政翼賛会は「欲しがりません勝つまでは」「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの戦意高揚の標語を発表した。

こうした戦意高揚のスローガンは大政翼賛会の花森安治が考えたものだと噂されていたが、実際にスローガンを考えたのは花森安治ではない。

大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集し、寄せられた作品の中から、「欲しがりません勝つまでは」など入選10作品、佳作20作品が選ばれたのである。

花森安治が標語を選んだとも言われることもあるが、花森安治は下っ端だったので、入選や佳作を選べるような立場ではなかった。

もっとも有名な「欲しがりません勝つまでは」は、三宅斌(みやけ・あきら)という男性が11歳の娘・三宅阿幾子の名前で応募した作品だった。

また、国策標語の「贅沢は敵だ」も花森安治が伊東胡蝶園の広報部時代に考えたとされているが、実話では雑誌「広告界」の編集長・宮山峻が考えたものである。

しかし、花森安治は、職人気質なところがあったので、スローガンや国策標語のポスター作りなのどに一切手を抜かず、大政翼賛会の宣伝マンとして、だれよりも真剣に戦意高揚の宣伝活動に取り組んだ事は事実である。

このため、花森安治は戦後になっても、「花森安治がスローガンを考えた」という疑惑について肯定も否定もしなかった。

■花森安治に2度目の召集令状

昭和18年(1943年)の春、戦意高揚の一環として、神戸の宝塚歌劇団で「明るい町、強い町」「戦いはここにも」などの脚本を手がけていた花森安治は、2度目の召集令状を受ける。

花森安治は神戸から鳥取県へ行き、鳥取で訓練を受けていたが、南方の戦線へ送られる直前に原隊への復帰が命じられて残留する。

花森安治は原隊へ復帰できることを喜んだが、病気と診断され、招集から23日後に除隊となった。

このため、花森安治は、戦線へ送られる兵隊に後ろめたさを感じながら、大政翼賛会に復帰する。

さらに、翌年の昭和19年(1944年)7月に、花森安治は大政翼賛会の文化動員部の副部長へと昇進する。

こうした戦意高揚の宣伝活動において、花森安治は、朝礼などの儀式の前に皇居(宮城)に向かって1分間の最敬礼を行う「宮城遥拝(きゅうじょうようはい)」などを考案して普及させた。

花森安治は国を守る事について信念を持っていたが、こうした戦意高揚の宣伝活動に、花森安治の思想は一切関与していない。

花森安治は、戦地に赴いた兵士に対する後ろめたい気持ちや、何事にも手を抜かない職人気質な性格から、大政翼賛会の広告マン・宣伝マンとして与えられた仕事を勤勉にこなしたのである。

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■花森安治が大橋鎮子(大橋鎭子)と出会う

昭和19年11月以降、東京への空爆が始まり、昭和20年3月10日は「東京大空襲」と呼ばれる大規模な空爆が行われ、東京は大きな被害を出した。

未だに大本営は日本軍が優勢だという虚報を流し続けていたが、国民は大本営の発表など信じないというありさまで、国民の間では敗戦の噂が流れていた。

このころ、大橋鎮子(大橋鎭子)は防空壕の中で、戦後の生活を考え、「知恵を売る商売」を思いついた。知恵を売る商売とは雑誌を作って売ることだった。

父親を5歳の時に亡くし、貧乏で苦労をしてきた大橋鎮子(大橋鎭子)は、雑誌を作って金持ちになり、母親や妹を幸せにしようと考えた。

昭和20年(1945年)6月、大政翼賛会は、本土決戦に備えて設立された国民義勇隊に吸収されて解散し、花森安治は職を失う。

このころ、花森安治は神奈川県川崎市に住んでいた。神奈川県川崎市も「川崎大空襲」で大きな被害を出していたが、花森安治の自宅は無事だった。

昭和20年(1945年)8月6日には広島県に原爆が投下され、3日後の昭和20年8月9日に長崎県に原爆が投下された。

昭和20年(1945年)8月15日に昭和天皇の玉音放送が流れ、日本は終戦を迎えた。大政翼賛会を吸収した国民義勇隊も敗戦を受けて昭和20年(1945年)9月に解散する。

日本の終戦を受けて、招集されていた田所太郎が、昭和20年(1945年)8月20日に復員する。

田所太郎は日本読書新聞の編集長で、花森安治の旧制松江高校・東京帝国大学時代の親友である。

日本読書新聞は、書籍を検閲・統制する国策機関「日本出版文化協会」の機関誌だったので、戦中も発行を続けていたのだが、編集長・田所太郎や編集員が招集されたため、休刊に追い込まれていた。

しかし、終戦によって編集長・田所太郎や編集員が復員したので、田所太郎は日本読書新聞の復刊に向けて動き出した。

花森安治は、親友・田所太郎の要請を受け、日本読書新聞の復刊に協力するため、日本読書新聞に出入りするようなる。

その一方で、花森安治は広告宣伝会社を設立するため、仲間と連日に渡り、話し合いを続けていた。

そのようななか、花森安治は、日本読書新聞で働いていた大橋鎮子(大橋鎭子)から、雑誌を出してお金持ちになり、母親や祖父に恩返しがしたい、と相談される。

大橋鎮子(大橋鎭子)が日本読書新聞の編集長・田所太郎に雑誌を出したいと相談すると、編集長・田所太郎は花森安治に相談する事を熱心に勧めたのだ。

大橋鎮子(大橋鎭子)から相談を受けた花森安治は、旧姓松江高校1年生の夏に母親を亡くしていたので、「僕は母親に親孝行が出来なかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」と言って、その場で協力を約束した。

翌日、花森安治は大橋鎮子(大橋鎭子)をニコライ堂の側の小さな喫茶店に誘い、「君は、どんな雑誌を作りたいのか?僕は二度と戦争が起らないようにする。そういう雑誌を作りたい」と尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は「花森さんの仰るとおりに致します」と答えた。

すると、花森安治は「今度の戦争に女性の責任は無い。それなのに酷い目に遭った。僕には責任がある。女の人が幸せで、みんなに温かい家庭があれば、戦争は起らなかったと思う。だから、君の仕事に僕は協力しよう」と告げた。

そして、花森安治が結婚について尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は雑誌を出版する事で頭がいっぱいだったので、「仕事を続けたいので、結婚はしません」と答えた。

花森安治が「誓うか?」と尋ねると、大橋鎮子(大橋鎭子)は「はい」と答えた。

こして、花森安治は広告宣伝会社を設立するメンバーの中心人物だったが、広告宣伝会社の設立から外れ、大橋鎮子(大橋鎭子)と共に雑誌の出版に向けて動き出したのである。

それは、昭和20年(1945年)10月、花森安治が34歳、大橋鎮子(大橋鎭子)が25歳の事であった。

お詫び:大変申し訳ございません。下書きまでは書いているのですが、アクセスがほとんど無いため、実話の続きは打ち切りとなりました。

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