栗山善助の小寺官兵衛(黒田官兵衛)奪還作戦

2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「栗山善助の小寺官兵衛(黒田官兵衛)奪還作戦」です。

このページは「黒田職隆の決断-竹中半兵衛の機転」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■織田信長の野望-有岡城の戦い
小寺官兵衛が有岡城から出てこないため、毛利側に寝返ったと思った織田信長は、竹中半兵衛に人質・松寿(後の黒田長政)の殺害を命じると、自ら兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。

しかし、戦国時代には珍しい総構えを有した有岡城は、かなりの要害で、そう簡単には落ちず、天正6年(1578年)12月、織田信長は有岡城の力攻めを諦めて安土城へと引き上げた。

元々、有岡城は伊丹城と言い、伊丹親興の城だったが、伊丹親興は反織田信長の勢力についたため、織田信長の家臣となった荒木村重に天正2年(1574年)に攻め滅ぼされ、荒木村重の城となった。

その後、織田信長は石山本願寺との戦争に備えて荒木村重に伊丹城の改修を命じた。このため、荒木村重は伊丹城を大改修して有岡城と改称した。この時に有岡城は、戦国時代では珍しい総構えの城のとなった。

織田信長の軍は荒木村重が籠城する有岡城を攻め落とせないのは、くしくも、織田信長の命令によって強固に大改修されたからであった。なお、有岡城は日本最古の総構えの城だとされている。

■小寺官兵衛の奪還作戦
さて、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城に幽閉されたという知らせが伝わると、姫路城の黒田家では、小寺官兵衛(黒田官兵衛)を奪還する作戦が練られていた。

そして、家臣の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門が小寺官兵衛を救出するため、商人に成りすまして有岡城に潜伏し、代わる代わる、牢獄に近づいて、小寺官兵衛の安否を伺っていた。

有岡城には銀屋新七という知り合いが居り、銀屋新七が牢番を買収してくれたので、栗山善助らは小寺官兵衛と連絡を取ることが出来るようになった。

このとき、黒田家の家臣・井口兵助(後の村田出羽)の叔母(母の姉)が有岡城で働いており、門番の加藤重徳は井口兵助の叔母が小寺官兵衛の世話をすることを許した。

小寺官兵衛は門番の加藤重徳に感謝して、「もし、無事に出られる事が出来たら、貴方の息子を養育したい」と申し出た。

その後、有岡城が落城すると、加藤重徳は次男・加藤玉松を姫路城へ送った。黒田官兵衛(小寺官兵衛)は約束通り、加藤玉松を養育し、実子・黒田長政と兄弟同様に養育した。この加藤玉松が、黒田24騎の1人となる黒田三左衛門である。

(注釈:黒田三左衛門のあらすじとネタバレは、「黒田三左衛門(黒田一成)の生涯」をご覧ください。)

■有岡城の落城
さて、三木城の別所安治も有岡城の荒木村重も、織田信長に反旗を翻して毛利側に寝返ったが、毛利輝元からの援軍はいっこうに現れず、苦しい籠城戦を余儀なくされていた。

そこで、天正7年(1579年)9月、荒木村重は密かに有岡城を抜けだし、毛利輝元に援軍を直訴へ向かった。

これを受けた毛利輝元は、吉川元春と小早川隆景を先手として大軍を播磨(兵庫県)へ投入するため、備中の松山(岡山県高梁市)まで兵を進めた。

しかし、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家が小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略を受け、織田信長側に寝返っていることが判明したため、毛利輝元は播磨への侵攻を諦めて引き返した。

天正7年(1579年)11月、荒木村重が不在となると、有岡城に居る一部の兵が織田信長側の内向工作に応した。

そして、織田軍が有岡城へ総攻撃をかけると、内応した家臣が門を開いて織田軍を城内へ引き入れた。

有岡城は8ヶ月渡る籠城戦に耐え抜き、織田軍を寄せ付けなかった有岡城であったが、内側から崩れ、織田軍の総攻撃によって落城した。

■小寺官兵衛の救出
一方、有岡城に潜伏していた小寺官兵衛(黒田官兵衛)の家臣・栗山善助と母里太兵衛は、織田軍の総攻撃を好機と見て、小寺官兵衛の救出に向かった。

栗山善助らが牢屋に向かうと、既に監視の兵は逃げていた。栗山善助らは斧で牢を壊して小寺官兵衛を助け出すと、戦争の混乱に紛れて有岡城を抜け出した。

[注釈:このとき、黒田官兵衛は唐瘡(梅毒)という病気に感染して、生涯、足が曲がらなくなり、「チンバ」と呼ばれたという説がある。ただし、梅毒は主に性病なので、信憑性は不明。]

救出された小寺官兵衛は、長い牢屋生活で力が弱り、足がすくんで歩けなかったので、屈強な者に背負われて、近くの農村へと逃げ込み、その後、有馬温泉で疲れを取った。

なお、黒田家には、秦桐若(はたのきりわか)という豪傑が居たが、早く傷を治そうとして、有馬温泉の湯を飲み、下痢を起して死んだ。このため、黒田官兵衛は有馬温泉の湯を飲まなかったという。

(注釈:黒田家の家臣・秦桐若については、「秦桐若の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

■有岡城から脱出後
その後、小寺官兵衛は有馬温泉から姫路城へ帰り、一族と生還を喜び、数日後、羽柴秀吉の元へと向かった。

すると、羽柴秀吉は「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。獄中の生活は苦しかっただろうが、こうして再会できた事は嬉しい限りである」と涙を流して喜んだ。

一方、小寺官兵衛の捕らわれていた事を知った織田信長は「人質の黒田長政(幼名は松寿)を処刑したことは後悔の至りだ。小寺官兵衛に合わせる顔が無い」と後悔した。

しかし、竹中半兵衛が機転を聞かせ、居城・菩提山城に人質・黒田長政を隠し置いていた事を知ると、織田信長は竹中半兵衛に感謝した。

小寺官兵衛も竹中半兵衛の機転に感謝したが、もう竹中半兵衛に礼を述べることは出来なかった。

竹中半兵衛は、小寺官兵衛が救出される半年前の天正7年(1879年)6月に、三木城を包囲する陣中で病死していたのだ。

黒田長政はこの時の恩を忘れず、後に筑前(福岡県)の大名になると、竹中重門の次男・竹中主善を貰い受け、養育した。

(注釈:竹中重門は、竹中半兵衛の嫡子で、竹中主善は竹中半兵衛の孫にあたる。)

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の生涯」のあらすじとネタバレ播磨編「実話・黒田官兵衛-三木の干殺し(みきのひごろし)」へ続く。

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