実話・黒田官兵衛-三木の干殺し
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「実話・黒田官兵衛-三木の干殺し(みきのひごろし)」です。
このページは「栗山善助の小寺官兵衛(黒田官兵衛)奪還作戦」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■三木の干殺し(三木城攻め)
羽柴秀吉は、三木城(兵庫県三木市)の別所長治を包囲して兵糧攻めにしていたが、隣接する摂津の荒木村重が離反したため、三木城に食糧補給路が開通し、三木城攻めは難航していた。
しかし、天正7年(1579年)5月に羽柴秀長が丹生山(兵庫県神戸市北区山田町)を制圧して三木城攻の食糧補給路を断つと、再び三木城は食糧に苦しむようになった。
天正7年(1579年)10月、荒木村重が有岡城を抜け出して毛利輝元へ援軍を求めに行くと、有岡城の兵士が織田信長に内応し、有岡城は落ちた。
天正7年(1579年)10月、毛利輝元は播磨に向けて援軍を送ったが、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の大名・宇喜多直家が黒田官兵衛の調略を受けて織田信長側に寝返っていたため、毛利軍は中国へと退き戻った。
天正7年(1579年)12月、有岡城の荒木村重に同調して毛利方へと寝返った御着城の小寺政職は、有岡城が落ちると、御着城を捨て、毛利輝元を頼って逃げ出した。
こうして、三木城は羽柴秀吉の軍勢に完全に包囲され、食料も搬入できず、毛利からの援軍も期待できない状態に陥った。
やがて、兵糧が尽きた三木城は、飢えに苦しみ、馬や牛を食べ尽くし、ネズミや木の根や土壁の中の藁などを食べたが、それでも大勢の餓死者を出した。その様子はまさに地獄絵図であった。
兵糧攻めは直接、血を流さないため、人道的な攻め方と勘違いする人も居るが、兵糧攻めは冷酷無比で極悪非道な攻め方なのである。
三木城への兵糧攻めは「三木の干殺し(ひごろし)」と呼ばれ、後の鳥取城への兵糧攻め「鳥取の飢殺し(かつごろし)」とともに、兵糧攻めを代表する残忍な戦となった。
この「三木の干殺し(兵糧攻め)」を提案したのが、羽柴秀吉の元で働いていた小寺官兵衛(黒田官兵衛)か竹中半兵衛だったとされている。
天正8年(1580年)1月15日、三木城の城主・別所長治は、城内の悲惨な状況に絶えきれなくなり、家臣の助命を条件に切腹を申し出た。
天正8年(1580年)1月16日、羽柴秀吉は別所長治の申し出を認め、別所長治に酒と肴を贈った。別所長治は喜んで酒宴を開き、家臣と別れを告げた。
天正8年(1580年)1月17日、別所長治は朝早く起きると、心を静め、「今はとて、恨みもあらじ、諸人の、いのちにかはる、わが身とおもへば」と辞世の句を詠んだ。
そして、別所長治は妻子を殺し、兄弟で自害して果てた。三木城の城主・別所長治は行年23歳であった。
こうして、三木城は羽柴秀吉の手に落ち、約2年間にわたる兵糧攻めは終了したのである。三木城の兵糧攻めは、城内の悲惨さから、「三木の干殺し」と呼ばれている。
そして、この三木城の兵糧攻めを提案したのは、小寺官兵衛(黒田官兵衛)とも竹中半兵衛とも言われている。
三木城の城主・別所長治が切腹して降服した天正8年(1580年)、黒田官兵衛は35歳であった。
■後藤又兵衛の追放
春日城(兵庫県神崎郡福崎町)の城主・後藤基信は、播磨守護大名・赤松家の一族で、鎌倉時代から続く名門だったが、三木城の城主・別所長治に従って織田信長に反旗を翻したため、羽柴秀吉の侵攻を受けて滅んだ。
春日城の城主・後藤基信の弟・後藤新左衛門は、春日城が落城すると、御着城の城主・小寺政職に仕えたが、子供の後藤又兵衛を残して病死する。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)は名門・後藤家が途絶える事を危惧し、子・後藤又兵衛を養育し、後藤又兵衛とその伯父・藤岡九兵衛を召し抱えた。
しかし、黒田官兵衛が有岡城の荒木村重に監禁されたさい、伯父・藤岡九兵衛が裏切り、御着城の城主・小寺政職と共に織田信長に反旗を翻したため、黒田官兵衛は一族同罪として後藤又兵衛を追放した。
(注釈:後藤又兵衛のあらすじと結末ネタバレについては「後藤又兵衛(後藤基次)の生涯」をご覧ください。)
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの播磨編「小寺政職の滅亡-小寺官兵衛から黒田官兵衛へ改名」へ続く。