実話-本能寺の変
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「実話-本能寺の変のあらすじとネタバレ」です。
このページは「備中高松城の水攻めのあらすじとネタバレ」」からの続きです。
実話「黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■本能寺の変
織田信長の元に中国征伐中の羽柴秀吉からの援軍要請が届いたのは、織田信長が甲斐(山梨県)の武田家を滅ぼして安土城へ凱旋した翌月のことであった。
甲斐の武田家は、武田信玄の死後、衰退。そして、武田勝頼は天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍に討たれ、武田家は滅んだ(天目山の戦い)。
天正10年(1582年)4月21日、織田信長は安土城へ凱旋。そして、天正10年5月17日頃、中国征伐中の羽柴秀吉からの使者が到着し、織田信長は援軍要請を受け、中国征伐の親征を決定する。
このとき、明智光秀は織田信長から徳川家康の接待役を命じられており、天正10年(1582年)5月15日から大阪で徳川家康を接待していたが、5月17日に織田信長から中国征伐の先陣を命じられ、接待役を解任された。
細川忠興など、近畿に領土を持つ大名が中国征伐の先手を命じられており、明智光秀も近畿に領土を持つ大名なので、先手を命じられたのだが、明智光秀は徳川家康の接待役の最中だったので、お役御免の扱いであった。
その後、織田信長は丹羽秀長らに接待役を命じ、徳川家康の接待は続けられた。
さて、援軍を命じられた明智光秀は、居城・坂本城(滋賀県大津市)へ戻って戦の準備を整えると、天正10年(1582年)5月27日に愛宕山(京都府京都市)にある白雲寺(愛宕神社)で必勝祈願の和歌を詠んだ。
このとき、明智光秀は「時は今、天が下知る、五月哉」という歌を詠んだ。この歌には「土岐氏の一族である明智光秀が天下を取る5月」という意味が含まれている、とされている(ただし、この歌の解釈には諸説ある)。
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は嫡子・織田信忠を露払い(先発隊)に、わずかな供を従え、安土城を出発した。この日は朝から雨が降っていたという。
同日、織田信長は京都にある本能寺に入り、嫡男・織田信忠は京都にある妙覚寺に入った。
翌日の天正10年(1582年)6月1日、織田信長は自慢の茶器を披露するため、茶会を開催する。
■明智光秀の出陣
さて、明智光秀は近江国滋賀郡の他にも丹波一国(京都府中部)を拝領しており、丹波では亀山城を居城にしていた。このため、近江国の居城・坂本城を出た明智光秀は亀山城へと入る。
天正10年(1582年)6月1日、明智光秀は亀山城で、幹部に対して「信長様が兵をご覧になりたいと言っており、閲兵を受けることになった」という触(ふれ)を出し、1万300の軍勢を率いて亀山城を出た。
6月1日午後6時、亀山の東に達したところで、明智光秀は明智秀満などの重臣5人を呼び寄せ、陣営から離れた場所で密かに軍議を開き、本能寺にいる織田信長を討つ決意を述べた。
すると、明智秀満ら重臣5人は「めでたい事に御座います。明日より、光秀様を上様と呼びたく思います」と言い、明智光秀の謀反に賛同した。
重臣の賛同を得た明智光秀は陣を3つ(または2つ)に分け、一手は山陰道より京都を目指し、一手は「老の坂峠」より、桂川を渡って京都を目指した。
このとき、明智光秀は、家臣・安田作兵衛に「味方から織田信長に通報する者が出るかもしれない。不審者を見つけたら斬り殺せ」と命じた。
このため、明智光秀の軍勢を見た農民が逃げようとすると、安田作兵衛は農民を追いかけて斬り殺した。こうして、安田作兵衛は農民を斬り殺しながら、京都にある本能寺を目指した。
さて、明智光秀は「老の坂峠」を通り、桂川に達したところで、兵士に事細かく指示を出し、戦の準備をさせた。
(注釈:このとき、明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったとされるが、それは創作の可能性が大きい。)
そして、天正10年(1582年)6月2日の早朝、明智光秀の軍勢は織田信長が居る本能寺を取り囲んだ。
織田信長は寝ていたが、物音によって目を覚ました。誰かが喧嘩を始めたものだと思っていたが、様子がおかしいため、小姓の森蘭丸に様子を見に行かせると、戻ってきた森蘭丸は「桔梗(明智光秀)の家紋でございます」と報告した。
これを聞いた織田信長は「是非に及ばず」と言い、弓をとって戦ったが、弓を2~3本放つと、弦が切れてしまった。そこで、織田信長は槍を取り、庭へ出て戦った。
しかし、織田信長は負傷すると、奥へ入り、女衆を追い出し、内側から鍵を閉めて切腹した。こうして信長の野望は潰えたのである。
なお、本能寺の変に加わった明智軍の雑兵・本城惣右衛門は、本能寺の変について「山崎へ行くのかと思っていたら、京都行きを命じられた。てっきり、上洛中の徳川家康を討つのかと思っていた」と書き残している。
■安田作兵衛
一説によると、明智光秀の家臣・安田作兵衛は本能寺で、森蘭丸を討ち取り、織田信長に一番槍をつけ、織田信長を負傷させた。織田信長はこの負傷で覚悟し、奥の部屋に籠もって自害したという。
(注釈:安田作兵衛は明智光秀の命令で、口封じのために農民を殺していた武将です。)
このため、本能寺の変の後、羽柴秀吉は、本能寺の変で織田信長を殺した張本人として安田作兵衛を厳しく探した。あまりにも追っ手が厳しいため、安田作兵衛は豊臣秀吉の追手を逃れるため、天野源右衛門へと改名したという。
■黒田官兵衛の中国大返し
さて、本能寺で織田信長が討たれたことが、備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉の陣営に伝わったのは、本能寺の変が起きた翌日の天正10年(1582年)6月3日夕方の事であった。
実話「黒田官兵衛(黒田如水)の生涯」のあらすじとネタバレ播磨編「実話-黒田官兵衛の中国大返しのあらすじとネタバレ」へ続く。