実話-中国大返し
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の中国大返しのあらすじとネタバレ」です。
このページは「実話-本能寺の変のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ一覧は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■中国大返し
天正10年(1582年)6月3日夕方、織田信長の茶道相手を務める長谷川宗仁(はせがわ・そうにん)の使者が、書状をもって黒田官兵衛の元に駆け込んできた。
(注釈:明智光秀が毛利輝元と手を組むため、毛利輝元に密書を送ったが、明智光秀の使者が間違えて羽柴秀吉の陣営に飛び込んだ、とも伝わる)
長谷川宗仁の書状には、6月2日早朝に明智光秀が本能寺を襲撃し、織田信長が自害したうえ、嫡子・織田信忠も二条城で自害した事が記されていた。
黒田官兵衛は長谷川宗仁からの手紙を読むと、使者に「それにしても早く着いたものだ。このことは絶対に他言してはいけない」と厳命し、酒を与えて労った。
京都で起きた本能寺の変が、1日半後に備中(岡山県)に居る黒田官兵衛の元に届いた。これは奇跡的な事だった。
黒田官兵衛は直ぐさま羽柴秀吉に書状を届けると、羽柴秀吉は書状を読んで非常に驚き、茫然自失となった。
このとき、黒田官兵衛は「ご武運が開けましたな」と告げたため、羽柴秀吉は「こやつは、ワシが死んでも、運が開けたと思うのか」と思い、黒田官兵衛を恐れたという。
そして、黒田官兵衛は「誠にご愁傷様でございますが、秀吉様が天下を治めるべきだと思います。明智光秀は主君を殺した逆臣なので、天罰を逃れられません。明智を滅びた後に、信長様のご子息2人を守り立てなさいませ。ご子息2人は天下を治める器ではないので、天下を狙って反逆を起す大名が現れるでしょう。これを討取れば、秀吉様の勢いはますます強くなります」と話すと、羽柴秀吉は冷静さを取り戻し、「私もそう思う」と答えた。
羽柴秀吉が「毛利の件はいかが致す」と問うと、黒田官兵衛は「今日路からの飛脚が1日半で届いたのは、天のお告げです。毛利との和睦もほぼ合意できていることも幸いです。明日の昼には毛利方にも知らせが届くでしょうから、明日の早朝に人質を取り、明智討伐の為に攻め上りましょう」と答えた。
羽柴秀吉と毛利輝元の和睦交渉は既に行われており、和睦交渉は煮詰まっていたが、領土の割譲問題と高松城の城主・清水宗治の切腹の2点が問題となり、和睦には到っていなかった。
そこで、軍師・黒田官兵衛は、問題となっている和睦の条件を棚上げし、和睦を最優先させることを提案したのである。
さて、羽柴秀吉は毛利への対応の方針が決めると、「織田信長の死が洩れては困る」と言い、黒田官兵衛に長谷川宗仁の使者を殺すように命じた。
黒田官兵衛は命令を引き受けたが、「彼こそ、1日半で70里の道を来た天の遣いである。早く来た功績はあれが、殺す罪は無い。羽柴秀吉が天下を取った暁には、恩賞を与えるべき人である」として、厳重に口止めを申しつけた上で、長谷川宗仁の使者を家臣に預けた。
こうして、長谷川宗仁の使者は黒田官兵衛の温情によって命を助けられたが、疲れ果てていたにもかかわらず、大食いしたため、まもなく死んでしまった。
■中国大返し-清水宗治の切腹
長谷川宗仁の使者によって羽柴秀志の陣営に本能寺の変の情報がもたらされた天正10年(1582年)6月3日の夜、黒田官兵衛は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼び、講和交渉を行った。
講和を成立させるためには、領土割譲問題と高松城の城主・清水宗治の切腹の2点が問題となっていた。
羽柴秀吉は高松城の城主・清水宗治の切腹を要求していたが、毛利輝元が「清水宗治を死なせては末代までの恥である」として清水宗治の切腹を受け入れなかった。
そこで、軍師・黒田官兵衛は、領土の割譲問題は棚上げにし、さらに、毛利輝元を通さず、高松城の城主・清水宗治を直接説得する事を提案した。
こうして、外交僧・安国寺恵瓊と秀吉の家臣・蜂須賀正勝らが水没した高松城へと渡り、高松城の城主・清水宗治に降服を説得した。
すると、徹底抗戦を主張していた清水宗治も折れ、「私の命で避ければ、喜んで差し上げましょう」と言い、城兵の助命を条件に切腹を承諾した。
その後、外交僧・安国寺恵瓊から報告を受けた毛利輝元は、「清水宗治がそれを望んでいるのであれば、仕方ない」と言い、清水宗治の切腹を認めた。
さらに毛利輝元は、残る領土割譲問題については棚上げする事にも合意し、こうして羽柴秀吉と毛利輝元の和睦が合意に達したのである。
これに喜んだ羽柴秀吉は、清水宗治の忠義を認め、高松城へ労いの酒と肴を送った。清水宗治はこの酒で別れの杯を交わしたという。
天正10年(1582年)6月4日朝、羽柴秀吉と毛利輝元の間で人質交換が行われた。
天正10年(1582年)6月4日昼、高松城の城主・清水宗治、兄の清水宗知、弟の清水宗治の3兄弟のほか、難波伝兵衛・末近信賀の2名を伴い、水没した高松城から小舟でこぎ出し、羽柴秀吉の陣営前に停泊すると、小舟の上で切腹した。
こうして、羽柴秀吉と毛利輝元の間に和睦が成立した。軍師・黒田官兵衛は難航していた和睦を、わずか1日半で成立させたのである。
■毛利の撤退
天正10年(1582年)6月4日昼過ぎ、毛利輝元の元にも使者が来て、織田信長が明智光秀によって討たれた事が伝わった。
それは、高松城の城主・清水宗治が切腹し、和睦が成立した直後のことだったという。
織田信長の死が毛利軍に伝わると、毛利家の重臣・吉川元春は、「和睦を破棄して、羽柴秀吉を追撃すれば、天下は毛利の物になる」と主張した。
しかし、毛利家の重臣・小早川隆景が「誓紙の墨が乾かないうちに講和を破棄することはできない」と言い、既に休戦調停が成立していることなどを理由に、羽柴秀吉の追撃に反対した。
毛利輝元は小早川隆景の意見を支持し、「祖父・毛利元就は遺言で『毛利は天下を狙うな』と言っている。それに、羽柴秀吉は天下人の器だ。今、恩を売っておけば、毛利に損は無い」と言い、撤退を決定した。
天正10年(1582年)6月5日、撤退の準備を進める黒田官兵衛は、羽柴秀吉に「毛利から預かった人質を毛利へお返しください」と進言した。
羽柴秀吉が「どうしてじゃ」と問うと、黒田官兵衛は「明智光秀との決戦に勝てば、天下は羽柴秀吉様の物となり、毛利輝元に反抗する力は無くなります。もし、明智光秀との決戦に負ければ、羽柴秀吉は生きてはいません。いずれにしても人質は必要はありません」と答えた。
羽柴秀吉は、黒田官兵衛の意見に納得し、毛利輝元に人質を返した。
■中国大返しの開始
(注釈:中国大返しの日程には6月4日説と6月6日説があるが、「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」では6月4日説を採用する。)
天正10年(1582年)6月4日、毛利軍が撤退を始めたので、羽柴秀吉も撤退の準備を始めるが、羽柴秀吉は毛利輝元の追撃を警戒していた。
すると、黒田官兵衛が「毛利軍が追撃してくれば、水攻めの為に築いた堰を切り落とします。堰を切れば、激流が起こり、毛利軍は水が引くまで進軍出来なくなります」と答え、殿(しんがり=軍の最後尾)を引き受けた。
これを聞いた羽柴秀吉は、安心して黒田官兵衛に殿を任せ、撤退を開始した。
羽柴秀吉の軍は、天正10年(1582年)6月4日夜に備前にある沼城(岡山県岡山市)に入り、翌6月5日に沼城を出発。暴風雨の中を進軍して6月6日に播磨にある姫路城へと到着すると、姫路城に4日間滞在して、兵を休めた。
姫路城に着いた羽柴秀吉は、姫路城の金庫を開け、有り金を全て兵士に分け与えた。これは、兵士の士気を上げる効果があると同時に、この決戦に勝たなければ帰る場所は無いという事を意味していた。
■毛利の援軍
天正10年(1582年)6月9日、羽柴秀吉の軍が姫路城を出て京都を目指す。そして、羽柴秀吉の軍が神戸市を出る辺りに差し掛かると、兵がざわつき始めた。
羽柴秀吉が部下に理由を調べさせると、羽柴秀吉の旗に混じって、毛利や宇喜多の旗が立っているということだった。
羽柴秀吉は軍師・黒田官兵衛を呼び、「ワシは毛利に援軍など頼んでいないぞ」と尋ねると、黒田官兵衛は「和睦をした時に旗だけ借りておいたのでございます。毛利の旗を立てておけば、後詰めに毛利が居ると思うでしょう。あの毛利までも秀吉様に味方したとなれば、対応を決めかねている近畿の諸大名も秀吉様に味方するはずです」と答えた。
すると、羽柴秀吉は側近の武将に「戦に大切なのは謀略であり、敵の首を取ることなど二の次に過ぎない。みな、黒田官兵衛の働きを後学の一助にせよ」と言い、黒田官兵衛を楠木正成の再来と褒め称えた。
こうして、毛利軍の旗を立てた羽柴秀吉は、天正10年(1582年)6月11日に尼崎に到着する。
播磨(兵庫県)は羽柴秀吉の領土なので安全だが、播磨より西の諸大名の動向は分からず、諸大名の出方を警戒しながら、進まなければならなかった。
このため、摂津を通って京都を目指す羽柴秀吉にとって、大きな問題は摂津(大阪府)に居る大名の動向であった。
もし、摂津の有力武将が明智光秀に味方していれば、相当な抵抗を受け、簡単には京都へ到達することが出来ないのだ。
しかし、羽柴秀吉が大軍を率いて摂津(大阪府)に入ると、毛利の旗に効果があったのか、中川清秀や高山右近といった摂津の有力武将は羽柴秀吉に味方したのである。
謀反を起こした明智光秀は、本能寺で織田信長を討ち取った後、安土城を占領して、諸大名の取り込み工作を行ったが、明智光秀は織田信長の首を示すことが出来なかったため、真偽が分からず、諸大名は対応を決めかねていた。
そこへ、中国征伐にあたっていた羽柴秀吉が大軍を率いて駆け付けたため、摂津の有力武将は羽柴秀吉に味方したのだ。
さらに、摂津の有力武将を取り込んだ羽柴秀吉は、四国征伐のため大阪に駐留していた神戸信孝(織田信長の3男)と丹羽長秀と軍と合流し、京都を目指したのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の山崎の合戦(天王山の戦い)のあらすじとネタバレ」へ続く。