黒田熊之助のwiki
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田官兵衛の家族編「黒田熊之助のwiki」です。
■黒田熊之助のwiki
黒田熊之助(くろだく・まのすけ)は、黒田官兵衛の次男であるが、16歳で死んだたため、黒田熊之助に関する資料はほとんど残っていない。次男・黒田熊之助は長男・黒田長政と比べると知名度は低く、その存在すらあまり知られていない。
■黒田熊之助の生涯
黒田熊之助は、黒田長政の15歳年下の弟で、「本能寺の変」や「山崎の合戦」があった天正10年(1582年)に生まれた(生まれ年に諸説あり)。
父母は、兄・黒田長政と同じく、父親は黒田官兵衛(黒田如水)で、母親は正室の櫛橋光である。
櫛橋光は、黒田官兵衛と結婚した翌年の永禄11年(1568年)に嫡男・黒田長政を出産したため、多くの子供が期待されていたが、次男・黒田熊之助が生まれたのは天正10年(1582年)と時間が空いた。
■黒田熊之助が死亡した理由
豊臣秀吉による第1次・朝鮮出兵(唐入り=文禄の役)は、休戦に入り、黒田長政など大半の日本軍は帰国したが、明(中国)との講和交渉は欺瞞外交によって決裂し、第1次・朝鮮出兵(慶長の役)が始まった。
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉による第2次朝鮮出兵(慶長の役)が始まり、父・黒田官兵衛(黒田如水)や嫡男・黒田長政は朝鮮半島に渡った。
このとき、次男の黒田熊之助はまだ16歳だったので豊前国の居城・中津城で留守をしていたが、朝鮮出兵に加われないことを遺憾に思い、密かに父兄の陣に加わることにした。
そこで、慶長2年(1597年)7月、黒田熊之助は、黒田家の家臣の子供の母里吉太夫(16歳)・黒田吉松(16歳)・木山紹琢の3人を従えて、中津より、朝鮮半島を目指して密かに出航した。
しかし、黒田熊之助らを乗せた船は玄界灘で暴風に遭って沈没し、船に乗っていた黒田熊之助・母里吉太夫・黒田吉松・木山紹琢は全員、溺死した。一緒に死んだ母里吉太夫は母里太兵衛の嫡男で、黒田吉松は黒田三左衛門の弟だった。
■黒田熊之助の死後
関ヶ原の合戦の後、嫡男・黒田長政が筑前(福岡県)を拝領すると、母・櫛橋光は黒田熊之助が死んだ玄界灘と黒田長政の居城・福岡城が見える場所に顕光山圓應寺(福岡県福岡市中央区大手門3丁目)を建立し、黒田熊之助を弔った。
黒田官兵衛の家臣や家族の情報については「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。