黒田官兵衛の大阪城普請と黒田長政の岸和田の戦い

V6の岡田准一が出演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の大阪城普請と黒田長政の岸和田の戦い」です。

このページは「黒田官兵衛の清洲会議と賤ヶ岳の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレまとめは「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛の大阪城普請
天正11年(1583年)、羽柴秀吉が柴田勝家を倒して織田信長の後継者に躍り出ると、黒田官兵衛は論功行賞で播磨に1000石を賜り、計2万1000石の大名になった。これは黒田官兵衛が38歳の事であった。

さて、織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、織田信長の安土城よりも大きな城を築いて、天下に威厳を示すことにした。

このとき、摂津(大阪府)は清洲会議の領土配分によっては池田恒興の領土となっていたが、羽柴秀吉は摂津の池田恒興を美濃(岐阜県)へと転封し、摂津を直轄地にすると、大阪城の建設に取りかかる。

羽柴秀吉は黒田官兵衛を大阪城の普請総奉行(建築責任者)に任命し、天正11年(1583年)9月1日から大阪城の建設を開始した。

このとき、羽柴秀吉は黒田官兵衛に5箇条の注意書きを送り、「石は片側通行で運搬せよ」などと大阪城普請の助言している。

ただ、黒田官兵衛が大阪城の普請総奉行(建築責任者)を担当したのは、天正11年(1583年)9月3日から天正13年(1585年)4月までの「1期工事」と呼ばれる期間だけである。

また、黒田官兵衛は大阪城の普請総奉行として大阪城に張り付いていたわけではなく、この間に毛利輝元との領土割譲問題の交渉も担当している。

備中高松城を水攻めにしているとき、毛利輝元と講和交渉を行っていた羽柴秀吉は、謀反を起した明智光秀を討つため、こじれている領土割譲問題を棚上げする事で毛利輝元との和睦を優先させ、中国大返しによって京都へ舞い戻り、明智光秀を討った。

明智光秀を討って織田信長の後継者に名乗りを上げた羽柴秀吉は、柴田勝家を討って当面の敵が居なくなると、天下統一の覇業を成し遂げるため、黒田官兵衛と蜂須賀正勝に毛利輝元との領土割譲問題を解決を命じたのである。

こうして、中国地方を訪れた黒田官兵衛は、毛利側の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと粘り強く交渉を続け、ようやく割譲問題を決着させたのである。

さて、黒田官兵衛が中国地方に出張して、羽柴秀吉の元を離れている間に、羽柴秀吉の方では新たな問題が発生していた。

なんと、織田信長の次男・織田信雄が、徳川家康と同盟を組んで、羽柴秀吉に敵意を示したのである。

■小牧の戦い・長久手の戦い
天正12年(1584年)、黒田長政は羽柴秀吉の斡旋により、蜂須賀正勝の娘・蜂須賀糸(糸姫)と結婚する。

蜂須賀正勝は羽柴秀吉の参謀で、黒田官兵衛と共に中国征伐の時に調略などを担当した武将である。

そのようななか、天正12年(1584年)3月、織田信長の次男・織田信雄が、羽柴秀吉に懐柔された家老の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3人を処刑し、徳川家康と同盟を組んで、羽柴秀吉に敵対した。

羽柴秀吉に敵対する大義名分を得た徳川家康は、四国の長宗我部元親、紀州(和歌山県)の加賀衆・根来衆、関東の北条氏政らと同盟を組み、羽柴秀吉包囲網を作って羽柴秀吉を苦しめた。

徳川家康は織田信長派の武将を味方につけていくが、織田信長の家臣だった池田恒興が羽柴秀吉に味方し、池田恒興が徳川家康勢力の犬山城(愛知県犬山市)を占拠した。

こうしたなか、愛知県犬山市羽黒において、徳川軍の酒井忠次が羽柴軍の森長可を撃破(羽黒の戦い)。徳川軍はそのまま兵を進め、小牧山城(愛知県小牧市)へと入った。

羽黒の戦いでの敗戦を受けた羽柴秀吉は、天正12年(1584年)3月21日に大阪を発ち、徳川家康の討伐へと向かう。

黒田官兵衛は毛利側との領土割譲問題の交渉にあたっているために不在で、代わりに黒田長政が羽柴秀吉に従軍していた。

天正12年(1584年)3月22日、紀州(和歌山県)の加賀衆・根来衆が、羽柴秀吉が出陣して手薄となった岸和田城(大阪府岸和田市)を襲撃する。

このため、羽柴秀吉は黒田長政・黒田兵庫助・明石左近・蜂須賀家政らを岸和田城の援軍に差し向けた。

■黒田長政と岸和田城の戦い
天正12年(1584年)3月、織田信長の次男・織田信雄が徳川家康と同盟を組んで羽柴秀吉に敵対する。羽柴秀吉は「羽黒の戦い」での敗戦を受けると、兵を率いて愛知県へと向けて出陣した。

この隙を狙い、紀州(和歌山県)の加賀衆・根来衆が3万の軍勢で大阪へ侵攻する。加賀衆・根来衆は2手に別れて、1手は陸路より岸和田城を攻め、1手は海路より堺を攻めた。

これに対して、羽柴秀吉は黒田長政・黒田兵庫助・明石左近・蜂須賀家政らを岸和田城の援軍に差し向けた。

黒田長政は先頭に立って戦い、敵2人を討取る働きを見せ、加賀衆・根来衆の大軍をを追い返した。

しかし、敗走した加賀衆・根来衆は悔しがり、黒田長政の軍勢を追撃するため、700騎を率いて引き返した。

このとき、黒田長政の軍勢は完全に引き上げていたが、黒田家の家臣・野村太郎兵衛が1人で戦場に残っていた。

野村太郎兵衛は加賀衆・根来衆が引き返してくるのを見ると、橋の上に立ち、加賀衆・根来衆に姿を見せた。

すると、加賀衆・根来衆は「まだ多くの敵軍が残っている」と思い、追撃を諦めて引き返した。

しかし、敵軍の中に、1人だけ引き返さない武者が居た。野村太郎兵衛はこの武者を見つけると、一騎打ちを挑んで戦った。戦っては休み、戦っては休み、一騎打ちは数度にわたったが決着は付かなかった。

そこへ、明石左近の家人・明石与太郎が現れた。明石与太郎は、敵の武者が野村太郎兵衛と戦い疲れて休んでいるところを襲い、見事に討ち取った。

その日の夜、堺を攻撃していた加賀衆・根来衆の別部隊が岸和田城を襲撃したが、黒田長政の軍勢に大敗した。黒田長政はこの時の功績により、後に羽柴秀吉から2000石を賜った。

■羽柴秀次と長久手の戦い
一方、羽柴秀吉は楽田城に入り、小牧山に布陣する徳川家康と対峙したが、双方に手が出せず、膠着状態が続いていた。

そのようななか、池田恒興が軍議で「徳川家康は小牧山に布陣している。その隙に手薄となった徳川家康の本拠地・三河(愛知県)を攻撃しまよう」と献策した。

池田恒興は、「羽黒の戦い」で敗戦した森長可に娘を嫁がせており、森長可の失敗を挽回するために、作戦を提案したという。

羽柴秀吉は池田恒興の作戦を1度は棄却したが、羽柴秀次が池田恒興の作戦を支持して総大将に名乗りを上げたため、羽柴秀吉は作戦を棄却出来なくなり、羽柴秀次を総大将とする2万の軍勢を三河(愛知県)へと差し向けた。

しかし、徳川家康が羽柴秀次の動きを察し、背後から羽柴秀次を攻撃して撃破。池田恒興や森長可は討ち死にし、羽柴秀次は命からがら逃げ帰った。そして、敗戦の知らせを受けた羽柴秀吉は大阪へ引いた。(長久手の戦い)

このとき、黒田官兵衛は毛利との領土割譲問題の交渉に当たっており、小牧・長久手の戦いに参加していなかった。羽柴秀吉が小牧・長久手の戦いで負けた最大の理由は、軍師・黒田官兵衛が不在とも言われている。

その後、羽柴秀吉が織田信雄と和議を結んだため、徳川家康は戦う大義名分を失い、羽柴秀吉と和議を結んだ。羽柴秀吉は戦で徳川家康に負けたが、政治力で徳川家康を押さえ込むことに成功したのである。

小牧・長久手の戦いは天正12年(1584年)、黒田官兵衛が39歳の出来事であった。

この年、黒田官兵衛は毛利輝元との領土割譲問題を解決し、羽柴秀吉から播磨国六栗郡を拝領した。そして、黒田官兵衛は計4万石の大名に出世した。

■羽柴秀吉の紀州征伐
天正12年(1584年)、織田信長の次男・織田信雄が徳川家康と同盟を結び、羽柴秀吉に敵対した。

軍師・黒田官兵衛を欠いた羽柴秀吉は、織田信雄・徳川家康連合軍に大敗したが、政治力を活用して和議に持ち込み、織田信雄と徳川家康とを押さえ込んだ。

天正13年(1585年)3月、羽柴秀吉は、徳川家康に与して岸和田城を攻めた加賀衆や根来衆を許さず、紀州征伐を開始する。紀州は頻繁に一揆を起す問題国なので、一揆勢を鎮圧する目的もあった。

さて、羽柴秀吉の養子・羽柴秀勝(織田信長の四男)は、小牧の戦い・長久手の戦いに参加していたものの、病気がちで将来が期待できなかった。

そこで、羽柴秀吉が期待したのが、甥・羽柴秀次であった。甥・羽柴秀次は、「小牧の戦い・長久手の戦い」で大敗を喫したが、紀州征伐では、羽柴秀長と共に副将を務めている。

羽柴秀吉は羽柴秀次と羽柴秀長を副将に据えて紀州征伐を開始。決死の覚悟で出陣した羽柴秀次は、「千石堀城の戦い」で活躍し、羽柴軍を勝利に導き、羽柴秀吉は紀州平定を達成した

羽柴秀吉は天正13年(1585年)4月に紀州征伐から凱旋。羽柴秀吉の次の標的は、四国統一を果たした長宗我部元親であった。

なお、黒田官兵衛は四国征伐を命じられているので、紀州征伐には参加していない。

実話「軍師・黒田官兵衛」のあらすじとネタバレ播磨編「長宗我部元親の四国統一と黒田官兵衛の四国征伐」へ続く。

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