黒田官兵衛の清洲会議と賤ヶ岳の戦い

V6の岡田准一が出演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の清洲会議と賤ヶ岳の戦い」です。

このページは「黒田官兵衛の山崎の戦いと明智光秀の死亡」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレまとめは「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛と清洲会議
明智光秀は天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変を起こし、織田信長を討ち取ったが、中国大返しで戻ってきた羽柴秀吉の軍勢に山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りに遭って死んだ。

謀反を起こして織田信長を討ち取った明智光秀の天下は、わずか11日間で終わった(明智光秀の3日天下)。明智光秀の討伐が終わると、次の問題は織田信長の後継者選びであった。

天正10年(1582年)6月27日、清洲城で織田信長の後継者および領地の配分を決める会議が開かれる(清洲会議)。

(注釈:角川太閤記によると、清洲会議のとき、羽柴秀吉は黒田官兵衛を清洲城へ呼び寄せていたようだが、黒田官兵衛が清洲会議でどのような働きをしたかまでは分からない。)

羽柴秀吉は清洲会議で織田信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を後継者に擁立しようとしたが、重臣筆頭の柴田勝家は織田信長の三男・神戸信孝(織田信孝)を推して対立した。

しかし、神戸信孝は養子に出た身であり、信長の後継者としては立場が弱いうえ、羽柴秀吉には亡き主君・織田信長の敵・明智光秀を討ったという功労があるため、羽柴秀吉が擁立する三法師(織田秀信)が織田信長の後継者に決定した。

また、領地の分配で、羽柴秀吉の領地が柴田勝家の領地を超え、羽柴秀吉が重臣筆頭へと躍り出て、清洲会議で羽柴秀吉と柴田勝家との立場が逆転する。

■黒田官兵衛と賤ヶ岳の戦い
清洲会議の後、柴田勝家は、織田家の中で勢力を拡大する羽柴秀吉を討つため、滝川一益・織田信孝・佐久間盛政らに檄を飛ばして反羽柴秀吉体勢を築いた。

織田信長の後継者に決まった神戸信孝三法師(織田秀信)は安土城へ入る予定になっていたが、柴田勢力の神戸信孝(織田信孝)が三法師(織田秀信)を預かったまま、岐阜城から出さなかった。

柴田勝家は反羽柴秀吉体勢を築いたものの、柴田勝家の居城・北ノ庄城(福井県福井市)は雪が深いため冬の間は戦争に出られない。この隙を狙って、羽柴秀吉は軍事行動に出た。

天正10年(1582年)12月、羽柴秀吉は5万の大軍で長浜城を包囲する。長浜城の城主・柴田勝豊は、柴田勝家の甥であったが、羽柴秀吉の調略を受けて羽柴秀吉に寝返った。

天正10年(1582年)12月、続いて羽柴秀吉は岐阜城を包囲し、岐阜城の城主・織田信孝を降服させた。

天正11年(1583年)1月、伊勢(三重県)の滝川一益が挙兵する。羽柴秀吉は大軍を率いて、伊勢へと侵攻した。

天正11年(1583年)年2月、北ノ庄城(福井県福井市)に居る柴田勝家は雪のために動けなかったが、業を煮やして挙兵し、雪を押して近江(滋賀県)へと進軍する。

柴田勝家などの連合軍は2万の軍勢で布陣。これに対して羽柴秀吉は5万の大軍で布陣し、両軍が近江(滋賀県)の賤ヶ岳周辺で対峙した(賤ヶ岳の戦い)。

天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳での戦いが膠着するなか、羽柴秀吉に降服し神戸信孝(織田信孝)が、岐阜城で羽柴秀吉に反旗を翻す。

これに怒った羽柴秀吉は、神戸信孝(織田信孝)が差し出していた人質を殺すと、賤ヶ岳に守備兵を残し、主力部隊を率いて岐阜城の神戸信孝(織田信孝)の討伐に向かった。

天正11年(1583年)4月17日、羽柴秀吉は岐阜城攻略のため、大垣城(岐阜県大垣市)へ入る。

さて、羽柴秀吉が主力部隊を率いて岐阜城攻略へと向かうと、賤ヶ岳に布陣する羽柴軍は手薄となる。

この隙を突き、柴田勝家軍の佐久間盛政が賤ヶ岳周辺に布陣する羽柴軍を攻撃を開始。柴田勝家は「深追いはするな」と注意したが、佐久間盛政は戦いを有利に進めるため、注意を無視して、次々と羽柴軍の砦を落としていった。

この知らせを受けた羽柴秀吉は岐阜城攻めを中止し、近江(滋賀県)へと引き返した。羽柴秀吉は52kmの距離を5時間で行軍し、同日夜9時ごろには近江の木之本(滋賀県木之本町)に到着した。この反転を「美濃返し」と言う。

賤ヶ岳に戻った羽柴秀吉は陣を13段に敷き、行軍の疲れを取るまもなく反撃を開始した。このとき、黒田官兵衛は5段目に布陣してて戦った。

このとき、嫡子・黒田長政は16歳であったが、栗山善助を後見として戦い、敵将1人を討取った。

羽柴秀吉の「美濃返し」により、賤ヶ岳の戦況は一変し、柴田勝家の勢力は一気に劣勢に立たされた。

すると、黒田家の旗奉行・竹森新右衛門は敵軍の旗の動きを見て、「敵の旗色が悪くなっています。これを機に攻め入れば、敵は必ず敗走します。攻めましょう」と進言した。

これを聞いた羽柴勢の木村常陸介は、「あれは守りを固めているだけだ。敗軍では無い。知った風な口をきくな」と吐き捨てた。

黒田官兵衛はしばらく戦場の成り行きを見守っていたが、「いや、竹森新右衛門の申す通り、敵陣営が負ける兆しである。急いで旗を進めて押しかかれ」と命じた。

旗奉行・竹森新右衛門は黒田官兵衛の下知を受け、旗を進めて総攻撃を駆けると、敵軍は支えることが出来ず、敗走した。

(注釈:黒田家の家臣・竹森新右衛門の生涯については、「竹森新右衛門(竹森次貞)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

黒田家の家臣・菅六之助(菅和泉)はこの時に初陣を果たし、敵の武者2人を討取った。菅六之助はこのとき、17歳。後に黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人となる家臣である。

(注釈:菅六之助の生涯については「菅和泉(菅正利)の生涯」をご覧ください。)

さて、黒田官兵衛が柴田勝家の第2陣を撃破すると、羽柴秀吉はこの勢いに乗じて柴田勝家の軍勢に総攻撃をかける。

柴田勝家の本陣はわずか3000の軍勢であったが、柴田勝家は総大将だったので、羽柴秀吉との決着をつけるため、羽柴軍の到来を待ち構えた。

しかし、柴田勝家の家臣・毛受勝介は、柴田勝家を諫めて、「私に『金の御弊』の馬印をお与えください。私が敵を引きつけるので、その隙にお逃げください」と言い、柴田勝家の身代わりを申し出て、柴田勝家を逃がした。

家臣・毛受勝介は柴田勝家から馬印「金の御弊」を受け取ると、柴田勝家を名乗って戦場に出て、兄・毛受茂左衛門と共に討ち死にした。

柴田勝家は、家臣・毛受勝介の捨て身の作戦によって居城・北ノ庄城(福井県福井市)へと逃げ帰ったが、その後、羽柴秀吉に北ノ庄城を包囲され、柴田勝家は正室・お市の方と共に北ノ庄城で自害した。

柴田勝家が自害したのは天正11年(1583年)4月24日、黒田官兵衛が38歳の事であった。

実話「軍師・黒田官兵衛」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の大阪城普請と黒田長政の岸和田の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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