野村市右衛門(野村祐直)の生涯

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田家臣伝「野村市右衛門(野村祐直)の生涯」です。

■野村市右衛門(野村祐直)のwiki
野村市右衛門(野村祐直)は黒田家の家臣である。父親は黒田24騎の野村太郎兵衛(野村祐勝)だが、野村市右衛門は黒田24騎には選ばれていない。

父・野村太郎兵衛の生涯については「野村太郎兵衛(野村祐勝)の生涯」をご覧ください。

■野村市右衛門(野村祐直)の生涯のあらすじ
野村市右衛門は天正9年(1581年)に播磨国姫路に生まれた。父親は黒田家の家臣を代表する黒田24騎の野村太郎兵衛である。野村市右衛門の本名は野村祐直で、筑前入国後に野村大学と改名し、後に野村隼人と名乗った。

慶長2年(1597年)2月14日に父・野村太郎兵衛が死ぬと、子の野村市右衛門が家督を継いだ。そして、野村市右衛門は家人を率いて第2次朝鮮出兵(慶長の役)に加わり、17歳で朝鮮半島に渡った。

野村市右衛門は17歳であったが、歴戦の武将に劣らずに活躍し、朝鮮半島での戦いの所々で手柄を挙げた。

慶長2年(1597年)9月7日、朝鮮半島にある稷山で黒田長政が明(中国)の大軍を撃破した時のことである(稷山の戦い)。

野村市右衛門は手勢50人を率いて、山に居る明軍(中国軍)に突撃し、明軍(中国軍)の第1陣を崩壊させ、さらに、その後に控えていた明軍の第2陣をも追い払った。

野村市右衛門は明軍の第3陣を攻撃したとき、明軍の第3陣の中から、白みかきの鎧を着た大男の唐人(中国人)が、鴇毛(ピンク系の色)の馬に乗って現れた。

唐人(中国人)はチキリキ(鎖鎌)と言って鉄球に鎖で鎌を付けた武器を持っており、野村市右衛門は槍を持って挑んだが、唐人の鉄球が野村市右衛門の左の膝頭を直撃し、野村市右衛門は馬から落ちた。

すると、唐人(中国人)は馬から下りて野村市右衛門を取り押さえようとしたので、野村市右衛門は刀を抜いて唐人の腰を刺した。さらに、野村市右衛門は脇差しを抜き、唐人の鎧の隙間を2度刺して、唐人を押し倒し、首を半分ほど掻き切ったところで、唐人は息絶えた。

味方が野村市右衛門を見つけて駆けてきて、立ち上がらせてくれたが、野村市右衛門は左膝を負傷しているため、馬に乗れず、遅れて帰陣した。

黒田長政は野村市右衛門の活躍を聞くと、「父(黒田24騎の野村太郎兵衛)に勝らぬ武勇なり」と感心し、野村市右衛門に腰の刀を与えた。

野村市右衛門は左膝の負傷が治らず、生涯、足を引きずるようになり、将軍の御前でも蹲踞(そんきょ=しゃがみ込む)で拝謁した。

■野村市右衛門の関ヶ原の合戦
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦のとき、野村市右衛門は豊前(福岡県)におり、中津城で挙兵した黒田如水に従い、豊後(大分県)へと侵略した。

石垣原で黒田軍が大友義統の軍勢と戦ったとき、黒田軍の先手・井上九郎右衛門が大友軍の吉広統幸と戦ったが、なかなか勝負がつかなかった(石垣原の戦い)。

そこで、野村市右衛門が手勢を率いて、左側から吉広統幸の軍勢に突撃し、吉広統幸の軍勢を崩壊させた。

手勢が総崩れとなった吉広統幸は、知り合いの黒田家家臣・井上九郎右衛門を探して一騎打ちを挑み、井上九郎右衛門に討取られた。

野村市右衛門は石垣原の戦いで活躍し、野村市右衛門の手勢が挙げた首級は計188で、そのうち冑(かぶと)付きの首が58だった。

また、野村市右衛門の家臣の大塩喜平次・篠倉喜兵衛・酒井弥次郎・爪田清右衛門・林四郎兵衛などが手柄を挙げ、黒田如水(黒田官兵衛)から感謝状と褒美を賜った。

筑前入国後、野村市右衛門は6000石を拝領し、鯰田城(福岡県飯塚市鯰田)の城主となった。野村市右衛門は寛永8年(1631年)8月4日に筑前の鯰田で死去した。

黒田官兵衛や黒田家臣の生涯については「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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