軍師・黒田官兵衛の九州征伐

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「黒田官兵衛の九州征伐」です。

このページは「長宗我部元親の四国統一と黒田官兵衛の四国征伐」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■九州征伐の背景のあらすじ
戦国時代の末期、九州地方は、肥前(佐賀県)の龍造寺隆信、豊後(大分県)の大友宗麟、薩摩(鹿児島県)の島津義久の3人が台頭しており、九州3国時代を迎えていた。

このようななか、キリシタン大名の大友宗麟は、軍師・立花道雪の活躍もあり、九州のうち6カ国を支配するまでに成長し、九州にキリシタン王国を設立する目前にまで迫っていた。

天正5年(1578年)、大友宗麟の台頭を見過ごせない薩摩(鹿児島県)の島津義久は、日向(宮崎県)へと侵攻。侵略を受けた日向(宮崎県)の伊東家は、日向を捨てて大友宗麟を頼った。

その結果、キリシタン大名の大友宗麟は、島津義久の討伐を決定したが、軍師・立花道雪が島津討伐を反対する。

しかし、聞く耳を持たない大友宗麟は、軍師・立花道雪を毛利軍への警戒を名目に、島津討伐軍から外すと、大軍を率いて日向(宮崎県)へと侵攻したのである。

天正6年(1578年)、大友宗麟は3万の大軍で日向(宮崎県)へ侵攻したが、「耳川の戦い」で島津義久に敗北し、壊滅的な被害を受けてしまった。

その後、大友宗麟は衰退の一途を辿り、島津義久が九州最大の大名に成長する。

さらに、天正12年(1584年)には、島津義久が「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信を下し、九州三国時代が崩壊。九州は島津義久の1強となり、島津義久が九州統一を目前とした。

天正13年(1585年)2月、15代将軍・足利義昭を庇護する中国覇者・毛利輝元は、将軍・足利義昭の権力を利用し、島津義久に大友宗麟の討伐を命じた。

中国地方の毛利輝元は、九州地方の大友宗麟と対立しており、島津義久に大友宗麟を討伐させようと考えたのである。

(注釈:15代将軍・足利義昭は織田信長に追放され、室町幕府は崩壊したが、地方に対しては依然として影響力を有していた。)

さて、島津義久は、将軍・足利義昭の命令を好機とみて、大友宗麟の討伐に乗り出し、九州の統一を目前とした。

こうして、窮地に陥った大友宗麟は、島津義久による九州統一を阻止するため、羽柴秀吉に助けを求めたのである。

天正13年(1585年)10月、関白に就任した豊臣秀吉は、島津義久による九州統一を認めず、朝廷の権威を利用して、島津義久と大友宗麟の双方に対し、「惣無事令(そうぶじれい)」を発令した。

惣無事令(そうぶじれい)とは、「みな無事」という意味で、私的な戦争を禁じる命令である。

さらに、羽柴秀吉は、島津義久に対して、大友宗麟への領土返還を命じた。

しかし、九州は京都から遠く離れており、豊臣秀吉の威風が十分に届いていなかったため、島津義久は「猿面の秀吉が、我に上洛しろとは片腹痛い。返事すら出す必要はない」と笑い、豊臣秀吉の書状を投げ捨てると、天正14年(1586年)6月に大友宗麟の豊後(大分県)へと侵攻する。

このため、羽柴秀吉は惣無事令違反を理由に九州征伐を決定し、中国勢と四国勢に九州征伐を命じたのである。

こうして、四国を平定した翌年の天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州征伐が始まるのであった。

■軍師・黒田官兵衛の九州征伐のあらすじ
天正14年(1586年)4月、黒田官兵衛は従五位下を賜り、勘解由次官に叙任された。黒田官兵衛が41歳のことである。

(注釈:ここから、黒田官兵衛は「黒田勘解由次官」と表記されるようになるが、実話「軍師・黒田官兵衛」では「黒田官兵衛」の表記で統一する。)

さて、九州征伐を決定した羽柴秀吉は、黒田官兵衛・安国寺恵瓊・宮本豊盛の3人を九州征伐軍の軍奉行に任命した。

黒田官兵衛は四国征伐で活躍したにもかかわらず、領土の加増は無く、九州征伐で活躍すれば、1国を与えられる約束になっていた。

このため、黒田官兵衛は、いまだ4万石の弱小大名だったが、2500人もの兵をかき集めて、九州征伐に参加している。

(注釈:戦国時代の兵の動員数は「1万石あたり250人」が目安とされているため、黒田官兵衛は九州討伐にかなりの力を入れていたようである。)

天正14年(1586年)8月、黒田官兵衛は軍監(軍師)として、毛利輝元の居城・吉田郡山城(広島県安芸高田市)へ入り、毛利輝元に九州征伐を命じた。

度々、九州への進出を伺っていた中国の毛利輝元は、対立している九州の大友宗麟を牽制するため、庇護している将軍・足利義昭を使って、島津義久に大友宗麟攻めを命じていた。

しかし、毛利輝元は豊臣秀吉の傘下に入っているため、豊臣秀吉の命令を受け、島津義久を討伐するために九州征伐に傘下することになる。

毛利家を支える毛利両川の一翼を担った吉川元春は、既に隠居していたが、強い出陣要請を受けて九州征伐へと駆り出された。

そして、天正14年(1586年)10月、黒田官兵衛は安芸(広島県)の毛利輝元、伊予(愛媛県)の小早川隆景、出雲(島根県)の吉川元春の軍勢を率いて九州へ渡った。これは黒田官兵衛が41歳の事であった。

■黒田官兵衛の豊前上陸
九州の統一を目指す島津軍は、筑前(福岡県西部)まで侵攻し、大友家の軍師・立花道雪が守る立花山城を攻め立てたが、立花道雪が立花山城で島津軍を食い止め、島津義久による九州統一を阻止していた。

天正14年(1586年)10月、毛利軍を引き連れた軍師・黒田官兵衛が、豊前の門司(福岡県北九州市)に上陸すると、豊前国京都郡刈田に布陣する。

刈田から3里半(13km)はなれた場所に宇留津城があり、2000人が籠城していた。黒田官兵衛は小早川隆景と吉川元春の軍勢を率いて宇留津城を取り囲む。

黒田官兵衛の家臣・母里太兵衛が1番に攻め口を突破して宇留津城に攻め入ると、我も我もと宇留津城に攻め入り、宇留津城は即日に落城した。

黒田官兵衛は籠城していた兵士1000人の首をはね、残る男女373人を生け捕りにして磔にすると、刈田の陣へと戻った。

一方、毛利軍が上陸したという知らせを受けた島津軍は浮き足立ち、撤退を始めた。これを好機とみた立花道雪が立花山城から打って出て、島津軍に奪われた城を奪還し、筑前(福岡県)での形勢が逆転する。

さて、筑前(福岡県)にある高祖城の城主・原田信種は田舎侍だったゆえ、1000人、2000人の軍勢を大軍だと思い込み、周辺の小競り合いに度々、勝利していたことを自慢に思っており、豊臣秀吉に降伏しなかった。

そこへ、軍師・黒田官兵衛は久野四兵衛らを目付役として、小早川隆景の軍勢を派遣した。

原田信種は豊臣秀吉の威風を知らず、小早川隆景の軍勢を返り討ちにするため、高祖城を出て待ち構えていたが、押し寄せてくる小早川隆景の軍勢が意外と大勢だったため、高祖城に引き返し、籠城して島津義久の援軍を待つことにした。

しかし、押し寄せてくる小早川隆景のの軍勢が3~4里彼方まで延々と続いているため、原田信種は度肝を抜かして評議にも及ばす、小早川隆景に降伏を申し出た。

一方、豊前へ侵攻した黒田官兵衛は、宇留津城を落とすと、城兵1000人を殺して海に捨て、女男370人を磔にして、見せしめとした。

さて、黒田官兵衛は豊前を着々と制圧し、時枝平太夫(時枝鎮継)の降伏盛り

こうして、豊前の豪族は次々と黒田官兵衛に降服していく。天正14年(1586年)11月には、吉川元春が病に倒れ、豊前の小倉城で死去するという不幸もあったが、黒田官兵衛は時枝城主・時枝平太夫(時枝鎮継)らの降伏もあり、天正14年(1586年)12月までに豊前を制圧した。

これに対して、島津義久は、豊臣秀吉に救援を求めた大友宗麟を滅ぼしすため、島津家久に大友宗麟の討伐を命じた。命令を受けた島津家久は大友宗麟の領土を次々と侵略していくのであった。

■四国勢の九州征伐
天正14年(1586年)12月、讃岐(香川県)の軍師・仙石秀久が、土佐(高知県)の長宗我部元親などの四国勢を率いて豊後(大分県)へ上陸し、豊後(大分県)の大友宗麟の援軍に駆けつけ、上の原という場所に新城を構えた。

一方、破竹の勢いで大友宗麟の領土を侵略する島津家久は、やがて、大友家の重臣・利光宗魚が守る鶴賀城(大分県大分市)を包囲する。

鶴賀城の城主・利光宗魚はなんとか持ちこたえていたが、島津家久の勢いは止まらず。利光宗魚は流れ弾に当たって戦死し、鶴賀城は風前の灯火となっていた。

天正14年12月、府内城(大分県大分市)に駐留している四国勢は防衛を命じられていたが、功を焦った四国勢の軍師・仙石秀久は、島津家久に包囲された鶴賀城を救うため、島津軍への攻撃を決した。

長宗我部元親は「敵を遠くへと引き出し、豊後の加勢を待ち合わせ、評議を開いて戦ってこそ戦に勝てるものだ。今、何の手立ても無く、小勢で大軍を攻めたとしても有利には戦えない」と諭したが、軍師・仙石秀久は「我が手勢だけで戦う」と言って聞き入れなかった。

このため、長宗我部元親は「仙石を救わずに討たせれば、我が家の弓矢の瑕瑾(傷)になる」として、嫡男・長宗我部信親を率いて出陣した。

これに対し、府内城からの援軍を予想していた島津家久は、戸次川(大分県大分市)に兵を伏し、仙石秀久の到達を待ち構えた。

四国軍は戸次川を渡りきったところで、待ち構えていた島津家久に襲撃され、四国軍は総崩れとなる。

嫡男・長宗我部信親は4尺3寸の大刀を持って敵に切り込み、敵8人を切り伏せ、その後、3尺5寸の刀を抜いて敵6人を討ち取ったが、大勢の敵に包囲され、終いには討ち取られてしまった。

このとき、長宗我部家の家臣・細川源左衛門と福富隼人佐の2人は、長宗我部元親に暇乞いをすると、敵陣へと切り込み、長宗我部信親に殉じて討ち死にした。

すると、長宗我部元親も馬を下りて刀を抜き、敵陣に切り込もうとしたが、家臣・十市新左衛門に強く諫められ、撤退した。

仙石秀久は豊臣秀吉の命令を無視し、功を焦って島津軍に戦いを挑み、敗北して讃岐(香川県)へ逃げ帰る。

仙石秀久の無謀な進軍により、長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親と、十河存保も戦死するという被害を受け、四国勢は退却した(戸次川の戦い)。

この知らせを受けた豊臣秀吉は、軍師・仙石秀久に激怒し、仙石秀久から領地(香川県)を没収した。そして、豊臣秀吉は九州親征に乗り出したのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ播磨編「豊臣秀吉の九州征伐と黒田官兵衛のキリスト教の棄教のあらすじとネタバレ」へ続く。

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