軍師・黒田官兵衛と城井鎮房
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「実話-軍師・黒田官兵衛と城井谷城の城井鎮房のあらすじとネタバレ」です。
このページは「豊臣秀吉の九州征伐と黒田官兵衛のキリスト教の棄教のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田官兵衛の豊前国入部
天正15年(1587年)6月、九州を平定した豊臣秀吉は、筑前の箱崎(福岡県福岡市東区)に凱旋し、論功行賞(九州国分)を行った。
この論功行賞で黒官兵衛は豊前6郡12万石を拝領し、残り豊前2郡は毛利吉成(毛利勝信)が拝領した。
天正15年(1587年)7月、黒田官兵衛は新天地となる豊前(福岡県東部)の馬ヶ岳城へ入る。
こうして、黒田官兵衛は播磨4万石の大名から、豊前6郡12万石の大名に成り上がったが、豊前は400年に渡り、城井(きい)一族が支配してきた土地で、黒田官兵衛が豊前に入部しても豊前の豪族は黒田官兵衛に服従せず、未だ治まっていなかった。
豊前を支配してきた城井谷城の城主・城井鎮房(きいしげふさ)は、九州征伐時に豊臣秀吉の軍門に降ったが、論功行賞での転封を拒否したため、領土を失い、黒田官兵衛が入部すると、豊前2郡を拝領した毛利吉成(毛利勝信)を頼って身を寄せた。
(注釈:城井谷城の城主・城井鎮房のあらすじとネタバレは「実話-城井鎮房(きい・しげふさ)の生涯」をご覧ください。)
■時枝城の城主・時枝平太夫(時枝鎮継)
豊前(福岡県東部)の豪族のほとんどは、城井氏(豊前宇都宮氏)から枝分かれした同族であり、黒田官兵衛が豊前に入部しても、豊前のほとんどの豪族は黒田官兵衛に従属しなかった。
豊前で黒田官兵衛に従属する豪族は、時枝平太夫(時枝鎮継)・宮成吉右衛門・広津鎮種・中間六郎左衛門(中間統種)の4人だけだった。
黒田官兵衛の側に付く4人のうち、時枝城の城主・時枝平太夫(時枝鎮継)は、豊臣秀吉による九州征伐時にいち早く豊臣軍の軍門に降り、先鋒隊として活躍した。
そして、時枝平太夫(時枝鎮継)は黒田官兵衛が豊前に入部すると、抵抗する豪族に対抗するため、進んで居城・時枝城を黒田官兵衛に差し出し、黒田官兵衛の与力となった。
天正15年(1587年)7月、豊前に入った黒田官兵衛は馬ヶ岳城から時枝城へと移り、時枝平太夫(時枝鎮継)を与力とすると、3条の掟を布告し、豊前(福岡県東部)の治安の安定に努めた。黒田官兵衛が布告した3条の掟は次である。
1・主人や親に背く事は罪である。
1・殺人や強盗をしたり、計画したりする者は処罰する。
1・密かに田畑を開墾する者も同罪である。
こられを知る者は、親族といえど密かに届け出よ。届け出た者には、密かに褒美を与える。
■黒田官兵衛の地検
天正15年(1587年)8月、黒田官兵衛は豊前(福岡県東部)に入って1ヶ月で検地を行った。
豊臣秀吉が行っていた検地を「太閤検地」という。太閤検地は、役人を派遣して、役人が田畑の面積を測るため、厳格な検地だった。
しかし、黒田官兵衛は豊前(福岡県東部)の検地を、自己申告による指出検地(さしだしけんち)で行った。指出検地は、織田信長時代の検地方法で、土地の広さを自己申告するため、曖昧な検地だった。
黒田官兵衛は自己申告制の指出検地にすることで、豪族の利権を残して、豪族の不満の解消に努めたのである。
■佐々成政と肥後国人一揆
肥後(熊本県)の豪族は、豊臣秀吉による九州征伐のとき、豊臣秀吉の威風を恐れて豊臣秀吉に従属したため、豊臣秀吉から本領を安堵されていた。
そして、九州征伐の論功行賞で佐々成政が肥後(熊本県)1国を拝領すると、肥後の豪族は佐々成政の与力となってた。
肥後(熊本県)は田舎だったので、知行を数えるのに、石高ではなく、「1町」「2町」とい風に田畑の面積で表していた。
そこで、佐々成政は、上方(近畿地方)と同じように石高へ改めるため、国中の検地を始めた。
しかし、肥後の豪族・隈部親永(くまべちかなが)は「我が領土は豊臣秀吉の朱印状によって本領を安堵されたものである。地検を受ける理由は無い」として地検を拒否した。
怒った佐々成政は、豪族・隈部親永を招き寄せて暗殺しようとしたが、それを察知した隈部親永は居城・隈府城に籠城した。
このため、佐々成政は兵を率いて隈府城を攻めたが、隈部親永が良く守るため山鹿城を落とすことが出来ず、佐々成政は隈府城に付城を築いて隈部親永を封じた。
これが切っ掛けとなり、肥後の豪族が一揆を起こし、佐々成政を攻めた。佐々成政は一揆を鎮圧できず、豊臣秀吉に状況を報告し、助けを求めたのである(肥後国人一揆)。
一揆の報告を受けた豊臣秀吉は、直ぐさま九州各地の大名に肥後国人一揆の鎮圧を命じた。命を受けた黒田官兵衛は黒田長政に豊前の留守を託し、肥後(熊本県)の一揆を鎮圧するために出陣する。
すると、九州征伐の論功行賞に異論を唱えて領土を失い、豊前2郡を拝領した毛利吉成(毛利勝信)の元に身を寄せていた豊前で最強の豪族・城井鎮房(きい・しげふさ)が黒田官兵衛の留守を狙って挙兵したのである。
■城井谷の城井鎮房(きい・しげふさ)
黒田官兵衛の新領地となった豊前(福岡県東部)は、藤原鎌足の流れを汲む名門・城井氏(豊前宇都宮氏)が16代・400年にわたり治めている土地だった。
さかのぼること400年前、平安時代の末期、宇都宮信房は京都の朝廷で事務職をしていたが、下野(栃木県)へ移り住み、御家人として源頼朝の陣営に加わった。
そして、宇都宮信房は「鬼界島の戦い」などで功績を挙げ、鎌倉幕府の樹立に貢献し、源頼朝より豊前(福岡県東部)の税所職・田所職などに任じられた。
こうして、宇都宮信房が実質的な豊前(福岡県東部)の支配者となり、豊前宇都宮氏の祖となった。以降、宇都宮信房は関東に本拠地を置きならが、一族を豊前に派遣して豊前を支配した。
(注釈:宇都宮信房は、下野国の名家「宇都宮氏」と同族で、これを区別するため、地名を付けて「豊前宇都宮氏」と呼び、下野国の宇都宮氏を「下野宇都宮氏」と呼ぶ。)
豊前宇都宮氏4代目・宇都宮通房は、鎌倉幕府を牛耳る北条家と関係を強め、豊前(福岡県東部)で勢力を拡大。そして、4代目・宇都宮通房は、蒙古襲来(元寇)で活躍し、豊前(福岡県東部)・筑後(福岡県南部)の守護代にまで成長した。
そして、4代目・宇都宮通房の頃に豊前に土着し、豊前国築城郡城井谷(福岡県築城町)を本拠地としたことから、豊前宇都宮氏は「城井(きい)」姓を名乗るようになった。このため、城井氏は「豊前宇都宮氏」とも「城井氏」とも呼ばれる。
7代目・城井冬綱(宇都宮冬綱)は南北朝時代の動乱で北朝に属していたが、その後、北朝が南朝に降服したため、城井氏は利権を奪われて衰退していった。
城井氏は衰退したものの、城井一族は豊前全土に広がっており、城井家は豊前の築城郡城井谷(福岡県築城町)に本拠地を置いて豊前を支配し続けた。
城井一族は豊前全土に広がっていたが、それぞれに独立性が強いため、あまり協力することがなく、城井氏は戦国大名にまでは発展しなかった。
戦国時代に入ると、城井氏は、中国地方の毛利元就に対抗するため、豊後(大分県)のキリシタン大名・大友義鎮(大友宗麟)に属した。
そして、16代目・城井鎮房は大友義鎮(大友宗麟)より「鎮」の1字を賜り、大友義鎮の娘を嫁に迎え、先祖伝来の城井谷の地を守った。
やがて、キリシタン大名・大友義鎮(大友宗麟)は勢力を拡大し、肥前(佐賀県)の龍造寺隆信や、薩摩(鹿児島県)の島津義久とと共に九州三国時代を迎えた。
天正6年(1578年)、大友義鎮(大友宗麟)は、北へと勢力を拡大する薩摩(鹿児島県)の島津義久を潰すため、日向(宮崎県)の地で決戦(耳川の戦い)に及んだが、島津義久に大敗を喫した。
耳川の戦いでの敗北が切っ掛けで、大友義鎮(大友宗麟)が衰退の一途をたどると、豊前(福岡県東部)の城井鎮房は大友義鎮に反旗を翻し、豊前に居る大友義鎮の勢力と対立した。
天正12年(1584年)には、島津義久が「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信を下し、島津義久は九州統一を目前とする。
しかし、大友義鎮(大友宗麟)は島津義久の九州統一を阻むため、四国統一を果たした豊臣秀吉に助けを求めた。こうして、豊臣秀吉による九州征伐が天正14年(1586年)7月に始まった。
九州征伐の先発隊として黒田官兵衛らが九州に上陸すると、豊前(福岡県東部)の城井鎮房(きい・しげふさ)は島津義久に属した。
しかし、大正15年(1587年)に豊臣秀吉が20万の大軍を引き連れて九州に上陸すると、城井鎮房はさしたる抵抗もせず、豊臣秀吉に帰順した。
城井谷城の城主・城井鎮房は豊臣秀吉に帰順したが、病気と称して九州征伐軍に従軍せず、息子の城井朝房(きい・ともふさ)にわずかな兵を付けて九州征伐軍に派遣していた。
息子の城井朝房はわずかな兵であったが、九州征伐軍の道案内を兼ねた先鋒隊として活躍したため、その功績が豊臣秀吉に認められ、論功行賞(九州国分)で今治(愛媛県今治市)12万石が与えられた。
これは、城井谷(推定3万石)から今治12万石への栄転であった。(注釈:転封先には諸説があり、詳しいことは分からない。通説では今治12万石とされている。)
しかし、父で城井谷城の城主・城井鎮房は「城井谷は源頼朝から拝領した先祖伝来の土地である」と言い、豊臣秀吉が命じた今治への国替えを拒否して朱印状を突き返した。
これに激怒した豊臣秀吉は、与えた今治12万石を没収してしまったため、城井谷城の城主・城井鎮房は行き場を失ってしまったのである。
既に城井谷を含む豊前(福岡県東部)6郡が黒田官兵衛に与えられており、天正15年(1587年)7月に黒田官兵衛は豊前に入国すると、城井谷城の城主・城井鎮房は退去を迫られたが、行き場の無い城井鎮房は困る。
すると、豊前2郡を拝領した毛利吉成(毛利勝信)は、この状況を見かねて、城井家の旧領土の3村(田河郡赤郷)を城井鎮房に貸し、豊臣秀吉への仲裁を買って出た。
そこで、行き場を失った城井鎮房は、毛利吉成(毛利勝信)を頼りることにし、天正15年(1587年)7月9日に城井谷城を出て、毛利吉成から借りた田河郡赤郷柿原へと移ったのである。
しかし、肥後で一揆が起きたため、豊臣秀吉から命令を受けた黒田官兵衛が、嫡男・黒田長政に豊前のことを任せ肥後へ向かうと、毛利吉成(毛利勝信)の元に身を寄せていた城井鎮房が挙兵したのである。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田長政と如法寺久信(如法寺孫二郎)の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。