黒田長政と城井鎮房-城井谷の戦い

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田長政と城井鎮房-城井谷の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田長政と如法寺久信(如法寺孫二郎)の戦い」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■城井鎮房の城井谷城奪還作戦
黒田官兵衛が肥後国人一揆の鎮圧のため、豊前を留守にすると、豊前国上毛郡の豪族・如法寺久信(如法寺孫二郎)が一揆を起こし、豊前の留守をしていた黒田長政は手勢を率いて上毛郡一揆の鎮圧に向かった。

天正15年(1587年)10月1日、上毛郡で起きた一揆の鎮圧に向かった黒田長政は、一揆を起こした豪族・如法寺久信(如法寺孫二郎)を討ち取りる。

天正15年(1587年)10月2日、城井鎮房は、黒田長政が上毛郡の一揆を鎮圧している隙を突き、毛利吉成から借りていた田河郡赤郷柿原を出発し、旧領土・城井谷(きいだに)にある大平城を襲撃した。

大平城は城井鎮房の拠点の1つで、黒田官兵衛の家臣・大村助右衛門が大平城を守っていたが、城井鎮房は大村助右衛門を追放して大平城を占領すると、城井谷(きいだに)の領民が城井鎮房に味方し、城井鎮房は居城・城井谷城(きいだに城)も奪還することに成功したのである。

こうして、城井鎮房は九州征伐の論功行賞で失った旧領土・城井谷を取り戻すことに成功すると、これに呼応して豊前の各地の豪族が一揆を起し、一揆は豊前全土に広がっていった。

一方、久留米に滞在して、小早川隆景らと肥後国人一揆を鎮圧するための軍議を開いていた軍師・黒田官兵衛は、黒田長政から一揆の知らせを受けると、小早川隆景に肥後国人一揆を任せて、馬ヶ岳城へと戻った。

■黒田長政と城井鎮房の戦い
軍師・黒田官兵衛は居城・馬ヶ岳城(福岡県行橋市)に戻ると、武将を各地へ派遣して守りを固め、豊臣秀吉に援軍を求めた。これを受けた豊臣秀吉は、中国地方の毛利勢に豊前国人一揆の鎮圧を命じる。

そのようななか、城井鎮房の手勢が馬ヶ岳城の近くまで来て、兵糧や牛馬を奪い、放火や狼藉を繰り返した。

これに激怒した黒田長政は、父・黒田官兵衛に城井鎮房を討伐する許可を求めた。

しかし、武将を各地の守備に配置しており、残っているのは若手の武将ばかりだったため、父・黒田官兵衛は「城井谷は天然の要塞で簡単には落とせない。今はその時期では無い。様子を見よ」と出陣を許さなかった。

ところが、黒田長政は、父・黒田官兵衛に秘密で2000人の兵を集め、城井鎮房の討伐の準備を進めた。

それを知った黒田家の家臣・井上九郎左衛門は「城井谷は要害の地なので攻め入るには不利です。城井鎮房が平地へ出てきた時に討つべきです。時が熟すのを待ちましょう」と、黒田長政に出陣中止を求めた。

しかし、黒田長政は20歳で血気盛んだったため、井上九郎左衛門の出陣中止要請を聞き入れなかった。

また、黒田家の家臣・竹森新左衛門は「不吉の兆しが出ております。出陣を5日延期してください。そのうちに肥後より援軍があります。そこで老軍を集め、評定を開いてから攻め入るべきです」と黒田官兵衛に出陣中止を求めた。

しかし、黒田長政は「汝の言う事は道理である。しかし、既に日限を決めて出陣の触れを出しており、それを破ることは出来ない。既に城井方にも伝わっており、城井方も備えを始めているだろう。我々が期日を延ばせば、城井方は恐れをなして延期したと思うだろう。そんなことになれば、侮りを受けて武勇は振るわない。明日はとにかく出陣する」と言って、竹森新左衛門の言葉を聞き入れなかった。

こうして、黒田長政は井上九郎左衛門や竹森新左衛門の反対を押し切り、天正15年(1587年)10月9日、2000人の兵を引き連れ、城井谷城主・城井鎮房の討伐に出陣したのである。

■黒田長政の城井谷城の戦い
黒田長政が城井谷の入り口にあたる寒田(福岡県築上郡築上町寒田)まで押し寄せると、城井鎮房の先鋒隊は、一戦も交えることなく逃げ出しだしたので、黒田長政は追撃して、多くの敵兵を討ち取った。

しかし、これは城井鎮房の策略だった。黒田長政は、血気盛んで武勇には優れていたが、まだ20歳だったため、策略というものを知らず、城井鎮房の罠にはまって深追いしてしまい、城井谷への奥へと入り込んでしまった。

そこで、黒田長政は高所へ登って地形を確認すると、城井谷は山が高く、崖は急で通る道は無い。谷は深く、石は滑りやすく、進退が自由にならない。谷口は狭く、道は1本しかない。その道は細いうえ、道の左右は深田になっていた。

さらに、城井谷には「三丁弓の岩」と呼ばれる難所がある。「三丁弓の岩」は、「3本の弓があれば、大軍でも防げる」と言われる程の天然の要害で、大軍を持ってしても、攻めるのは難しい。

まさに、城井谷は、古語にある「1人隘を守れば、萬夫も當り難し」そのものの要害であった。

城井谷の地形を見た家臣の後藤又兵衛や吉田六郎太夫などは、「聞きしに勝る要害ですな。寒田にある邑城ぐらいなら落とせるでしょうが、この少数で居城・城井谷城を落とすのは無理でしょう。一度、兵を引いて策謀を巡らせましょう」と進言した。

しかし、旗奉行の竹森新左衛門は「今、旗を引けば敵が、敵は高いところから攻めてくる。低いところに居る味方は、敵を防ぐことが出来ず、敗走するだろう。旗を引くことはできない」と反対した。

軍議の結果、黒田長政が兵を引き、その後、竹森新左衛門が旗を引き、もし、敵が攻めてくるようであれば、旗を立て直し、反撃する事になった。

■黒田長政と家臣・大野小弁
さて、予定通りに黒田長政が撤退を開始した後に竹森新左衛門が旗を引くと、これを好機とみた城井鎮房は、城井谷城から打って出て、高いところから、黒田長政の軍勢を追撃し、黒田軍を散々に蹴散らした。

黒田長政が城井軍に追撃されていると、黒田長政の護衛をしていた家臣・大野小弁は、黒田長政に「その羽織を着ていては標的にされてしまいます。願わくはその羽織を賜らん」と頼んだ。

黒田長政は羽織を脱いで大野小弁に渡すと、大野小弁は羽織を着て馬を返し、追撃してくる城井軍に切り込んだ。

そして、大野小弁は自分が総大将(黒田長政)かのごとくに振るまい、敵に一歩も引かずに奮闘したが、城井鎮房の家臣・塩田内記に槍で突かれて討ち死にしてしまった。

すると、大野小弁の続いて、黒田家家臣の高橋平太夫・横山興次(横山与次)・益田與六郎(益田与六郎)・四宮次左衛門ら5人が、黒田長政が逃げる時間を稼ぐため、馬を返して、城井軍と戦って討ち死にした。

こうして、黒田長政は、大野小弁・高橋平太夫・横山興次(横山与次)・益田與六郎(益田与六郎)・四宮次左衛門ら6人(1名は名前不明)の犠牲により、九死に一生を得たのであった。

■黒田長政と大野九郎左衛門の退却
さて、地形に明るい城井鎮房は城井谷の地形を活かし、黒田長政の先鋒隊を壊滅させた。

黒田長政は先鋒隊の敗走を受けて、本陣を固め、城井鎮房が攻めてくるのを待っていたが、城井鎮房が一向に攻めてこないため、黒田長政は打って出て城井鎮房に決戦を挑もうとした。

すると、家臣の大野九郎左衛門が、黒田長政が乗っている馬を引いて、強制的に退却させようとした。

黒田長政は刀に手をかけ、「放さなければ切るぞ」と激怒したが、大野九郎左衛門は手を放さず、馬を引いて退却しようとする。

激怒した黒田長政は7~8回、大野九郎左衛門を蹴る。大野九郎左衛門は3カ所に傷を負ったが、馬を放さなかった。

それでも、黒田長政は馬を返して城井鎮房に決戦を挑もうとしたため、家臣・貝原市兵衛は馬から飛び降り、黒田長政の馬の尻をムチで叩いた。すると、馬は走り出し、黒田長政は無理矢理、退却させられた。

一方、黒田家の旗奉行・竹森新左衛門は先鋒が敗走したのを受けると、旗を立て直して踏みとどまった。

竹森新左衛門は、旗を引いては立て直し、引いては立て直し、と徐々に引き、城井軍に追撃の隙を与えなかったので、黒田長政の本陣は赤旗村の下2キロまで撤退することが出来た。

■黒田長政と黒田三左衛門の撤退
さて、地理に明るい城井鎮房の軍勢は岩の陰や藪の中など、思わぬ所から攻撃してくるので、黒田長政は大勢の負傷者を出していた。しかも、黒田長政が反転して攻撃しようとすると、城井鎮房の軍勢は退いてしまう。

そのようななか、黒田長政は築城へ引き上げていると、城井軍に挟み撃ちにされしまった。黒田長政は引き返して本道から来る敵に向かっていこうとしたが、深田に馬を乗り入れてしまい、身動きできなくなってしまった。

城井軍は好機と思い、黒田長政をめがけて集まってきたが、黒田長政が馬を下りて鎌を構えると、城井軍は距離を置いて黒田長政を遠巻きにした。

そこへ、黒田家の家臣・黒田三左衛門(黒田一成)が手勢を率いて黒田長政の救出に駆けつけた。

黒田三左衛門は乗っていた馬から下りて、「この馬にお乗りください」と三度も頼んだが、黒田長政は「お前はまだ若いから、馬に乗っていないと苦労するだろう。馬に乗っていなさい」と断った。

そこへ、黒田家の家臣・菅六之助が駆けつけた。菅六之助は馬を下りて、黒田長政に馬を差し出したが、黒田長政は「今日の敗戦は無念である。死ぬ覚悟で戦う」と言い、馬を断った。

すると、側近の三宅三太夫が黒田長政を抱えて、菅六之助の馬に乗せると、「ここは大将が討ち死にする場所ではございません。ここは、味方の兵が防ぎます。それでも、敵が追撃してきて、いよいよと言うときは、有利な場所で引き返して一戦交えてください」と頼んだ。

黒田長政は退却する事にしたが、直ぐには退却せず、馬を回してその場に留まり、黒田三左衛門の支度が出来るのを待った。

黒田三左衛門は馬を黒田長政に譲ろうとしたとき、馬具が外れたため、退却に手間取っていたのだ。

黒田長政は黒田三左衛門だけを残していけば、敵兵に討たれると思い、馬を3周ほどさせ、黒田三左衛門の準備が整うのを待ち、黒田三左衛門の準備が整うと、黒田長政は黒田三左衛門などを従え、退却したのである。

黒田三左衛門は、この時のことを後年まで語り継ぎ、黒田長政の情に感謝して涙を流した。

(注釈:黒田三左衛門の生涯については「黒田三左衛門(黒田一成)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)

一方、菅六之助は深田にはまった黒田長政の馬を引き上げ、川で馬の泥を落としていると、城井兵に襲われたが、菅六之助は城井兵2人を討ち取り、退却した。

■黒田三左衛門の身代わり
こうして、黒田長政は退却を始めたが、城井鎮房の軍勢は執拗に追いかけて来るので、黒田長政は激怒して、「地の利を知らなかったとは言え、先手を敗戦させたのは残念至極である。引き返して決戦を望もうぞ」と決戦を挑もうとした。

すると、黒田三左衛門は黒田長政の馬口にすがり、「勢いに乗る敵に立ち向かっても、必ず犬死するでしょう。後日、策を立てて容易く討てば良いのです。どうしてもというのであれば、お腰の物をお貸しください。私が殿の御名を名乗り討死いたしましょう。その間にお逃げください」と諫めた。

かつて、柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れたとき、柴田勝家は逃げずに、総大将として羽柴秀吉に決戦を挑み、討ち死にしようとした。

このとき、柴田勝家の家臣・毛受勝照(毛受勝介)は、柴田勝家から柴田勝家の馬印「金の御弊」を貰い受け、柴田勝家を名乗って打って出て敵を引きつけて時間を稼ぎ、柴田勝家の身代わりとなって討ち死にし、その間に柴田勝家を北ノ庄城へと退却させた。

黒田三左衛門は毛受勝照(毛受勝介)の話を聞いており、常々、黒田長政が窮地に陥った時には毛受勝照(毛受勝介)のように命を捨てて、黒田長政を助ける覚悟をしていたのだ。

黒田長政は黒田三左衛門の討ち死にを許さず、退却を決めると、三宅三太夫・菅六之助・木屋兵左衛門・岡本彌兵衛・小河久太夫・坂本七左衛門などの家臣が決死の覚悟で黒田長政の周りを固め、1塊になって退却を始めた。

黒田家の家臣は近づいてきた者を切ろうと鎌を構えていたので、城井鎮房の軍勢は遠巻きに黒田長政に弓を放ったが、それ以上は近づけず、黒田長政は三宅三太夫らに囲まれて、居城・馬ヶ岳城まで逃げ帰った。

一方、旗奉行の竹森新左衛門は後陣に踏みとどまり、巧みに旗を立てたり引いたりして追撃の好きを与えなかったため、城井鎮房の軍勢は追撃することが出来ず、竹森新左衛門は見事に兵を引くことが出来た。竹森新左衛門はこのときの武功が評価され、翌年に600石を加増された。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「原弥左衛門(原種良)と黒田長政の城井谷の封鎖作戦」へ続く。

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