黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)の生涯
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛を実話で紹介する実話「軍師・黒田官兵衛」のあらすじとネタバレの黒田家家臣編「黒田六郎右衛門(中間統種)の生涯」です。
黒田家家臣の井口兵助(村田吉次)の生涯については「井口兵助(村田吉次)の生涯」をご覧ください。
■黒田六郎右衛門(中間統種)のwiki
黒田六郎右衛門(中間統種)は、豊前(福岡県東部)の豪族で、黒田官兵衛が豊前に入部後に黒田官兵衛に降り、山田大膳の暗殺で活躍し、黒田姓を賜った。黒田六郎右衛門は黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」には選ばれていない。
なお、黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)については、「黒田六郎左衛門(中間六郎右衛門)」という表記もありますが、黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)が正しい。「六郎左衛門」は誤字です。
■黒田六郎右衛門(中間統種)の生涯
黒田六郎右衛門は、本姓を「中間」と言い、本名を「中間統種」と言う。幼名は「中間六郎次郎」で、その後、「中間六郎右衛門」を名乗った。その後、黒田官兵衛から黒田姓を賜り、黒田六郎右衛門を名乗った。
中間家は豊前(福岡県東部)の豪族で、黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)は、豊前国下毛群山国にある一戸城の城主・中間山城守の子して生まれた。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州を平定すると、黒田官兵衛は豊前6郡12万石を拝領し、豊前に入部したが、城井谷城の城主・城井鎮房のほか、豊前各地の豪族が黒田官兵衛に抵抗して一揆を起した(豊前国一揆)。
一揆を起こした豊前の豪族の中で強敵なのが、城井谷の城井鎮房、上毛郡の山田大膳、下毛群の黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)の3人だった。この3人は3足のごとく城を構え、山の中の居城に籠もって、黒田官兵衛に従わなかった。
■黒田六郎右衛門(中間統種)の降伏
黒田六郎右衛門は豊前国下毛群で最強の豪族だったが、黒田官兵衛の武勇を知っていたため、黒田官兵衛から降服の要請を受けると、「降服すれば、領土を失ううえ、身を失うかも知れない。しかし、黒田官兵衛は名高い武将で、降服しなければ、中間家が滅びるのは確実だ」と悩んだ。
そこで、黒田六郎右衛門は家臣の1人残らずに、自分の意見を書いて入札するように命じた。
乱世の時代だったため、字の書けない家臣も多かったが、字の書けない者は字の書ける者に頼んで意見を書き、家臣全員が入札した。
家臣全員の入札が終わり、黒田六郎右衛門が入札を開けると、誰一人として黒田官兵衛の降服に反対する意見は無く、全員が黒田官兵衛へ降服するべき理由を書いていた。
入札を見た黒田六郎右衛門は評議を開くまでも無く、黒田官兵衛に従うことを決め、早々と黒田官兵衛に降服した。
豊前国人一揆の時に黒田官兵衛の味方となった豊前の豪族は、時枝平太夫(時枝鎮継)・宮成吉右衛門・広津鎮種・黒田六郎右衛門(中間統種)の4人だけで、黒田六郎右衛門は数少ない黒田官兵衛の見方となる。
その後、黒田六郎右衛門の元に一揆を起した城井谷城の城主・城井鎮房から、「黒田官兵衛に背いて一緒に戦おう」という誘いの使者が来たが、黒田六郎右衛門は「一度、黒田殿に下った以上、心変わりはしない」と黒田官兵衛への忠義を貫き、誘いを断った。
■山田大膳の暗殺
一揆を起した上毛郡の豪族・山田大膳は、かなりの強敵で、山城に立てこもり、黒田官兵衛を困らせた。
黒田官兵衛に降服した黒田六郎右衛門は、上毛郡の豪族・山田大膳の従兄弟だったので、黒田官兵衛は黒田六郎右衛門に山田大膳の暗殺を命じた。
命令を受けた黒田六郎右衛門は、黒田官兵衛の手勢を案内して上毛郡へ行くと、山田大膳が籠もる城の近くに黒田官兵衛の手勢を隠して城内に入った。
山田大膳と黒田六郎右衛門の2人は従兄弟だったため、山田大膳は何の疑いも持たずに黒田六郎右衛門を城内に入れると、黒田六郎右衛門は隙を見て城門を開き、場外で待機していた黒田官兵衛の手勢を城内に引き入れ、山田大膳を討ち取った。
黒田官兵衛は、黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)が心変わりをして山田大膳に寝返らなかった事を感心し、豊臣秀吉に黒田六郎右衛門(中間統種)の功績を報告した。
豊臣秀吉は中間六郎右衛門の功績を認め、中間六郎右衛門(中間統種)に知行500石を与た。
黒田官兵衛も黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)に領地を与えると共に黒田性を名乗ることを許した。黒田六郎右衛門(中間六郎右衛門)は以降、黒田六郎右衛門と名乗った。
■黒田六郎右衛門のその後
豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、黒田六郎右衛門は、黒田長政に従軍して所々の戦場で功績を挙げた。
また、関ヶ原の合戦のとき、黒田六郎右衛門は豊前に居り、中津城で挙兵した黒田如水に従ってが九州平定に従軍し、所々の戦場で功績を挙げた。
その後、黒田長政が筑前・福岡藩の藩主となると、黒田長政は筑前上座郡小石原に新城を築き、黒田六郎右衛門に与えた。また、黒田長政は黒田六郎右衛門に筑前上座郡内に3700石の領地を与えた。
■黒田六郎右衛門の死後
黒田六郎右衛門(中間統種)は寛永2年に70余歳で死去。死後は子・黒田喜太郎が家督を引き継いだ。さらに、子・黒田喜太郎は父親の名前を引き継ぎ、名前を「黒田六郎右衛門」へと改めた。
福岡藩の2代藩主・黒田忠之の時代、家老の栗山大膳(栗山利章)が、お家騒動「黒田騒動」を起し、盛岡藩に流刑になるった。
子・黒田六郎右衛門(黒田喜太郎)は栗山大膳の娘婿だったため、福岡藩・黒田家を出て、他国で死んだ。
その他の黒田家家臣の生涯については「実話・黒田官兵衛のあらすじとネタバレ」をご覧ください。