黒田官兵衛の隠居を決意した理由

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田官兵衛の隠居を決意した理由のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛と生駒親正の高松城の縄張りのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■佐々成政の自害と城井鎮房の暗殺命令
豊臣秀吉は天正15年(1587年)9月、権力を象徴する居城「聚楽第(じゅらくだい)」を京都で完成させた。

そして、豊臣秀吉は九州征伐から凱旋すると、大阪から聚楽第へと移り、聚楽第で政務を取り仕切るようになった。

天正16年(1588年)、豊前の戦後処理を終えた黒田官兵衛は、豊臣秀吉に報告するため、京都へと向かった。

黒田官兵衛はその途中で立ち寄った讃岐(香川県)で、讃岐領主・生駒親正に高松城の建設についてアドバイスする。その後、大阪を経て京都へと入り、豊臣秀吉に豊前国人一揆の戦後処理について報告する。

肥後国人一揆を起された肥後の領主・佐々成政も豊臣秀吉に報告を行い、一揆の弁明をしたが、豊臣秀吉は佐々成政の失態を許さず、佐々成政に切腹を申しつけた。

その結果、佐々成政は天正16年(1588年)閏5月、肥後国人一揆の責任を取って尼崎にある法園寺で自害している。

豊臣秀吉は黒田官兵衛には切腹を命じなかったが、城井鎮房との講和については認めず、黒田官兵衛に城井鎮房と城井一族の処刑を命じた。

■豊臣秀吉の刀狩り令
天正16年(1588年)7月、豊臣秀吉が農民の武器所持を禁じる「刀狩令」を発令し、農兵分離を進めた。

この時代の農民は武器を所有しており、戦争時には兵士になっいた。城井鎮房が一揆を起したとき、城井谷の住民は城井鎮房を支持し、黒田官兵衛を苦しませた。

一説によると、豊臣秀吉は、九州で起きた一揆を重く見ており、農兵分離を進めるため、刀狩令を発令したという。

■黒田官兵衛の隠居を決意した理由のネタバレ
天正16年(1588年)、黒田官兵衛が京都の聚楽第に滞在しているとき、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)をしている山名禅高(山名豊国)が尋ねて、山名禅高が羽柴秀吉と家臣の雑談を教えてくれた。

ある日、豊臣秀吉が家臣と雑談をしていたとき、豊臣秀吉が家臣に「ワシが死ねば、誰が天下を取ると思う」と尋ねたのだという。

家臣がそれぞれに、毛利や上杉などの有力大名を挙げると、豊臣秀吉は「黒田官兵衛の事を忘れておる。黒田官兵衛なら天下を取れる」と指摘した。

しかし、家臣が「お言葉ですが、官兵衛殿は、わずか12万石の大名です。とても天下が取れるとは思いません」と異論を唱える。

すると、豊臣秀吉は「お前たちは黒田官兵衛の知恵を知らんからじゃ。難題に当たっても、黒田官兵衛に相談すれば、直ぐに答えが出る。黒田官兵衛ならワシが生きている間でも天下を取れるだろう」と話した。

山名禅高(山名豊国)からこの話を聞いた黒田官兵衛は、隠居を決意し、豊臣秀吉に謁見し、黒田長政に家督を譲る譲る許可を求めた。しかし、豊臣秀吉は黒田官兵衛の隠居を認めなかった。

困った黒田官兵衛は、豊臣秀吉の正室・北の政所(高台院)に頼み、豊臣秀吉の説得を頼んだ。

その昔の播磨時代、黒田官兵衛の主君・小寺政職が織田信長に属する事を決めたとき、黒田官兵衛は1人息子の黒田長政を織田信長に人質として差し出した。

人質となった黒田長政は豊臣秀吉が預かっており、子供の居なかった豊臣秀吉の正室・北の政所(高台院)は、黒田長政をたいそう可愛がった。

このような経緯があったため、正室・北の政所(高台院)は、黒田官兵衛が黒田長政に家督を譲ることを喜び、黒田官兵衛の頼みを聞いて豊臣秀吉を説得したのである。

北の政所(高台院)の説得によって豊臣秀吉は、黒田長政の家督相続を認めたが、黒田官兵衛の才能を惜しんで隠居は認めず、黒田官兵衛は家督を譲った後、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)として仕えることになった。

ただ、黒田官兵衛が実際に隠居して黒田長政に家督を譲るのは、翌年の天正17年(1589年)の事である。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「毛利輝元が黒田官兵衛に激怒した理由のあらすじとネタバレ」へ続く。

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