毛利輝元が軍師・黒田官兵衛に激怒

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「毛利輝元が軍師・黒田官兵衛に激怒のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛の隠居を決意した理由のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■毛利輝元が軍師・黒田官兵衛に激怒
天正16年(1588年)、黒田官兵衛が京都にある聚楽第(じゅらくだい)に滞在していたとき、中国地方の覇者・毛利輝元も豊臣秀吉に招かれて聚楽第を訪れていた。

毛利輝元が京都を訪れたのは今回が初めてで、大阪城や聚楽第を見た毛利輝元は、先祖伝来の居城・吉田郡山城(広島県安芸高田市)は山城で交通の不便が悪くて時代遅れだと悟り、新しい城の建設を決意した。

その後、居城・吉田郡山城に戻った毛利輝元は、中国地方の覇者にふさわしい城を築くため、家臣の二宮就辰と穂井田元清の2人を普請奉行に任命し、新しい居城の建築に着手した。

そして、二宮就辰と穂井田元清の2人は各地を見聞し、安芸(広島県)の五箇村を新城建設の候補地に挙げた。五箇村は、太田川の下流に三角州(デルタ地帯)を形成しており、海運にも便利な土地であった。

二宮就辰から報告を受けた毛利輝元は、小早川隆景に意見を求めると、小早川隆景は「ちょうど、黒田官兵衛が安芸(広島県)に来ている。黒田官兵衛なら適任だ。黒田官兵衛に相談してはどうか」と助言した。

このころ、豊臣秀吉は政略結婚を勧めており、豊臣秀吉は宇喜多直家の娘・容光院を養女として迎え、毛利家の重臣・吉川広家に嫁がせた。豊臣秀吉は政略結婚により、宇喜多直家と吉川広家の2人を縁者としたのだ。

そして、天正16年(1588年)10月、黒田官兵衛は豊臣秀吉の名代として、吉川広家の婚礼に立ち会うため、吉川広家の居城・小倉山城(広島県山県郡北広島町)を訪れていたのである。

小早川隆景から黒田官兵衛が滞在していることを聞いた毛利輝元は、これ幸いと、黒田官兵衛に居城の建設地について相談すると、相談を受けて五箇村を見聞した黒田官兵衛は「毛利家の居城に最適の立地条件だ」と大小判を押した。

喜んだ毛利輝元は黒田官兵衛に城の縄張(城の配置設計)を頼み、黒田官兵衛の指導を受けて、五箇村で城の建設を開始する。天正19年(1591年)に城がほぼ完成し、毛利輝元が入城を果たした。

このとき、五箇村は「広島」と呼ばれるようになり、建設した城は「広島城」と名付けらた。また、広島城は別名で「鯉城(りじょう)」とも呼ばれる。

3年後の文禄元年(1592年)4月、豊臣秀吉は朝鮮出兵(唐入り=文禄の役)の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)へ行く途中に広島を立ち寄ったとき、毛利輝元の広島城を見て「なんとも要害の悪い場所に建てたものじゃ。水攻めにされたら、ひとたまりもない」と呆れた。

それを聞いた毛利輝元が「黒田官兵衛に謀られた」と激怒すると、小早川隆景は「中国9カ国を有する大国の毛利家が堅城を築けば、豊臣秀吉に警戒され、どんな嫌がらせを受けるか分からない。しかし、豊臣秀吉は広島城を見て、『いつでも落とせる』と思ったから、毛利家は安泰なのでございます」と、軍師・黒田官兵衛の真意を教えたのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「黒田長政が城井鎮房の暗殺したあらすじとネタバレ」へ続く。

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