黒田官兵衛の小田原征伐

V6の岡田准一が主演するNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「軍師・黒田官兵衛の小田原征伐のあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田官兵衛が黒田長政に家督を譲った理由-黒田官兵衛の茶道のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田官兵衛の小田原征伐(小田原の役)
豊臣秀吉は、中国征伐・四国征伐・九州征伐を行い、西日本の統一を果た。念願の徳川家康も上洛して豊臣秀吉に臣としての礼を取り、東日本もほとんどの大名が豊臣秀吉に従ったが、関東の北条氏直と東北の伊達政宗は豊臣秀吉に従わなかった。

北条家は上杉謙信や武田信玄の侵略を防いだ難攻不落の小田原城を本拠地とする関東最大の大名で、北条家の当主・北条氏直は関東8州を治め、徳川家康と同盟を結び、関東統一を目前としていた。

しかし、北条氏直は信濃国(長野県)の豪族・真田昌幸(真田幸村の父)との間に、上野国(群馬県)で沼田領土問題を抱えていた。

豊臣秀吉は、北条氏直が抱えていた沼田領土問題を解決することで、北条氏直を上洛させて忠誠を誓わせようとした。

しかし、豊臣秀吉が沼田領土問題を解決しても北条氏直は上洛せず、豊臣秀吉は名胡桃城事件を切っ掛けに、私闘を禁じた「惣無事令(そうぶじれい)」に違反したとして、小田原征伐を発動するのである。

■黒田官兵衛の小田原征伐の背景
信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)を拠点とする真田という豪族が居た。真田幸隆(真田幸村の祖父)は名門・滋野家の末裔を自称していたが、信濃国小県郡真田郷を拝領したことから真田を名乗るようになった。

真田幸隆は、甲斐(山梨県)の武田信虎(武田信玄の父)の侵攻を受け、領土を失ったが、その後、真田幸隆は武田信玄の家臣となり、武田信玄の信濃国(長野県)侵攻で活躍し、失った信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)を回復した。

真田幸隆(真田幸村の父)は調略に長けており、武田信玄の上野国(群馬県)侵攻でも活躍し、沼田(群馬県沼田市)を切り取り、真田家の領土とした。

その後、甲斐(山梨県)の武田信玄は信長包囲網に参加し、織田信長の討伐に乗り出すが、元亀4年(1573年)4月に志半ばで病死した(武田信玄の死亡)。

武田信玄から家督を相続した武田勝頼は、長篠合戦で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて以降、衰退の一途をたどり、その後、織田信長・徳川家康の侵略を受けて武田家は滅んだ(武田家の滅亡)。

武田領(甲斐・駿河・信濃・上野)は織田信長の支配下となったが、武田家の滅亡から3ヶ月後に明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長が死亡する(織田信長の死亡)。

本能寺の変で織田信長が死ぬと、旧武田領は空白地となり、三河の徳川家康、相模の北条氏直、越後の上杉景勝が旧武田領へ侵攻し、旧武田領を奪い合った(天正壬午の乱)。

織田信長の死後、上杉景勝が信濃(長野県)北部へと侵攻し、北条氏直は上野国(群馬県)から信濃南部に侵攻した。そして、三河の徳川家康は甲斐(山梨県)へと侵攻した。

北条氏直は上杉景勝に属する春日信達(高坂昌元)から内応を得ており、信濃(長野県)で上杉景勝と雌雄を決しようとした。

しかし、上杉景勝に春日信達(高坂昌元)の内応を気づかれてしまい、春日信達(高坂昌元)は処刑された。

このため、北条氏直は上杉景勝との決戦を断念する。一方、上杉景勝も本国・越後(新潟県)で家臣・新発田重家に不穏な動きがあり、北条氏直との決戦を断念する。

このため、上杉景勝は信濃(長野県)北部の川中島を制圧すると、北条氏直と和議を結んで本国・越後へと引き上げた。

上杉景勝と和議を結んだ北条氏直は、甲斐(山梨県)へと侵攻した徳川家康と対決するため、天正10年(1582年)8月に大軍を率いて甲斐へと侵攻した。

これに対し、徳川家康は甲斐の新府城(山梨県韮崎市中田町)に入り、北条氏直の大軍と対峙した。

このとき、信濃国(長野県)小県郡では、徳川家康に属する春日城の城主・依田信蕃が三澤小屋に籠もり、北条軍に抵抗していた。

徳川家康は依田信蕃を支援すると共に、依田信蕃を通じて北条氏直に属していた信濃国小県郡真田郷の豪族・真田昌幸の調略を開始し、真田昌幸を徳川側に寝返らせることに成功した。

(注釈:真田昌幸は真田幸隆の三男で家督相続には関係無かったが、長篠の戦いで長男と次男が戦死し、三男の真田昌幸が家督を相続して真田家の当主となった。)

徳川家康側に寝返った真田昌幸は依田信蕃と共に北条軍を攻撃し、北条氏直の食料補給路を制圧した。

一方、北条家の北条氏忠・北条氏勝は徳川家康の背後を突くため、1万の大軍を率いて甲斐(山梨県)東部へと侵攻したが、徳川家康の家臣・鳥居元忠らの軍勢に敗北してしまう。

北条氏直の大軍は未だ健在であったが、真田昌幸に食糧補給路を断たれたうえ、常陸国(茨城県)の佐竹義重が上野国(群馬県)へと侵攻してきたため、甲斐(山梨県)からの撤退を余儀なくされた。

一方、徳川家康は単独で北条氏直の大軍に勝つ見込みが無く、織田家から援軍の約束を取り付け、織田家の援軍を待っていたが、織田家で羽柴秀吉と柴田勝家の後継者争いが勃発したため、織田家からの援軍が期待できなくなった。

このため、徳川家康と北条氏直は、織田信雄(織田信長の次男)の斡旋もあり、天正10年(1582年)10月29日に和議を結び、北条氏直が徳川家康の次女・督姫を正室に迎え、徳川家康と北条氏直は同盟を結んだ。

この和議で、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏政の領土とすることが決まった。

さて、信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)を拠点とする豪族・真田昌幸は、武田家の滅亡後、織田信長に属したが、曽田信長の死後、信濃北部へと侵攻してきた越後の上杉景勝に属した。

その後、相模の北条氏政が信濃南部へと侵攻してくると、上杉景勝の傘下を離れて北条氏政に属したが、徳川家康の調略を受けると北条氏政の傘下を離れて徳川家康に属した。

真田昌幸は武田家の滅亡後、様々な混乱に乗じて旧武田家の家臣や近隣の豪族を取り込みながら、着実に勢力を拡大し、信濃国小県郡真田郷(長野県東御市)から上田国沼田(群馬県沼田市)までを支配下に置いていた。

しかし、徳川家康と北条氏直が同盟を結んで、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏政の領土としたことから、真田昌幸は北条氏直から上田国沼田(群馬県沼田市)の引き渡しを求められた。

しかし、真田昌幸は、徳川家康から代替地を与えられていないため、沼田領の引き渡しを拒否し続けた(真田昌幸の沼田領土問題)。

このころ、徳川家康は、織田信長の後継者となった羽柴秀吉と対立し、信濃(長野県)北部を支配する上杉景勝とも対立していたため、真田昌幸の沼領の引き渡し拒否を黙認した。

真田昌幸はこの間に勢力を拡大し、信濃国小県郡(長野県上田市)のほぼ全域を支配下に置くようになり、天正11年(1583年)、信濃国小県郡上田(長野県上田市)にある尼ヶ淵の古城を修復した。

信濃国小県郡上田は信濃国の中央北部にあり、信濃の交通の要所で、信濃北部へ侵攻するための拠点であった。

信濃北部への侵攻を狙う徳川家康にとって尼ヶ淵の古城は、信濃北部を支配する上杉景勝との対決に重要だったため、徳川家康は尼ヶ淵の古城を支援し、完成したのが上田城である。

実質的には、徳川家康が上田城を普請し、真田昌幸に与えた形になるらしい。

上田城は天正12年(1584年)に完成し、真田昌幸は上田城を居城とした。

さて、徳川家康は真田昌幸の沼田領土問題を黙認していたが、天正12年(1584年)に「小牧・長久手の戦い」で徳川家康と敵対すると、後方の安全を守るため、北条氏直との同盟を強化する必要があり、沼田領土問題の解決が重要になってくる。

そこで、北条氏直から沼田領の引き渡しの催促を受けた徳川家康は天正12年(1584年)7月、信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武に真田昌幸の暗殺を命じた。しかし、暗殺計画は真田昌幸に見破られ、室賀正武は真田昌幸に処刑されてしまった。

徳川家康は軍事力を背景に、真田昌幸に沼田領の引き渡しを迫ったが、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地では無く、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と拒否した。

このころ、信濃(長野県)南部を支配する徳川家康は、信濃北部を支配する上杉景勝と対立しており、徳川家康に対して事実上の手切りを宣言した真田昌幸は、上杉景勝との交渉を開始する。

真田昌幸には上杉景勝を裏切って北条氏直に属した過去があるため、交渉は難航したが、真田昌幸は人質として次男・真田幸村(真田信繁)を上杉景勝の元に送り、上杉景勝から傘下に入る承諾を得た。

天正13年(1585年)8月、これを知った徳川家康は「領土問題で不服があるのであれば、裁判を起こすのが筋であるにもかかわらず、徳川家康と手切れして敵対するとは、不届き千万である。直ちに成敗せよ」と激怒し、家臣・鳥居元忠に真田討伐を命じた。

こうして、天正13年(1585年)閏8月、鳥居元忠ら7000の軍勢が、真田昌幸の居城・上田城に迫ったのである。

上田城(長野県上田市)は平地に築かれた平城であったが、当時は珍しい総構えを有しており、矢出沢川や千曲川や湿地帯を利用した要害であった。

真田昌幸は農民や女子を総動員して2000の勢力であったが、千鳥掛(ちどりがけ)という「八」の形をした木製の柵を通路の随所に設定して、徳川軍を待ち構えていた。

そして、真田昌幸は偽りの敗走で、徳川軍を上田城二の丸まで誘い込むと、城内に潜んでいた500の兵で一斉に反撃に出た。

驚いた徳川軍は上田城から退却しようとするが、真田昌幸が設置していた千鳥掛(ちどりがけ)は「八」の形をしているため、入る時は邪魔にならないが、出る時は邪魔になり、思うように退却できず、真田昌幸の攻撃を受けて大きな被害を出した。

徳川軍は真田昌幸の追撃を受けながらも、撤退を開始するが、増水した神川を渡らなければならず、神川で大勢が溺れ死に大きな被害を出した(第1次上田城の戦い=神川の戦い)。

(注釈:真田幸村が第1次上田城の戦いで初陣を果たしたという逸話もあるが、この時、真田幸村は人質として上杉景勝の元に送られているため、真田幸村は第1次上田城の戦いに参加していない。)

第1次上田城の戦いにより、真田昌幸の知謀は天下にとどろき、真田昌幸は名実ともに大名として認められるようになる。

特に、小牧・長久手の戦いで徳川家康に辛酸を舐めらされた羽柴秀吉は、真田昌幸の活躍を大いに喜んだという。

さて、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)に四国を平定する一方で、朝廷の混乱(関白相論)の隙を突いて関白に就任し、豊臣秀吉と名前を改めた。

豊臣秀吉は密かに東国への調略を開始しており、信濃(長野県)の豪族・小笠原貞慶や木曾義昌を帰属させていた。

真田昌幸は上杉景勝に属していたが、徳川家康と北条氏直の侵攻に対抗するため、天正13年(1585年)9月に徳川家康と敵対する豊臣秀吉に帰属を申し出ると、豊臣秀吉は大いに喜んだ。

上杉景勝も豊臣秀吉に属する事になり、上杉景勝が上洛して不在になると、真田昌幸は人質として上杉景勝の元に送っていた次男・真田幸村を呼び戻し、次男・真田幸村を人質として豊臣秀吉の元に送った。

上杉景勝は真田昌幸の行為に激怒して豊臣秀吉に真田幸村の返還を求めたが、豊臣秀吉は真田幸村を寵愛し、上杉景勝の要求を拒否したため、上杉景勝はそれ以上は何も言えなかった。

さて、徳川家康は真田討伐の機会をうかがっていたが、徳川家の重臣・石川数正が天正13年(1585年)11月13日に突如として徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走るという事態が発生した。

重臣・石川数正は徳川家の軍事機密を知る要人で、この非常事態により、徳川家康は真田討伐を中止し、軍事の再編を行った。

このとき、徳川家康は武田家の家臣から武田家の軍事資料を提出させ、武田式の軍事編成を取り入れた。この軍事編成が江戸幕府の基礎となる。

さて、豊臣秀吉は天正12年(1584年)に起きた「小牧・長久手の戦い」以降、徳川家康に対して強硬姿勢をとっていたが、天正14年(1586年)に入ると方針を一転して徳川家康に上洛を求めた。

天正14年(1586年)4月、豊臣秀吉は徳川家康を上洛させるため、妹・朝日姫を徳川家に継室として嫁がせる。しかし、徳川家康は上洛しない。

そこで、天正14年(1586年)10月、豊臣秀吉は、生母・大政所が朝日姫に会いに行くという理由で、生母・大政所を実質的な人質として徳川家康の元へ送る。

すると、さすがの徳川家康も上洛を拒否することが出来ず、天正14年(1586年)10月24日に上洛し、天正14年(1586年)10月27日に大阪城を訪れ、豊臣秀吉に家臣として忠誠を誓った。

さて、このころ、九州では薩摩(熊本県)の島津義久が九州統一に迫り、豊後(大分県)の大友宗麟(大友義鎮)が島津義久の九州統一を阻止するため、豊臣秀吉に助けを求めていた。

これを受けた豊臣秀吉は島津義久・大友宗麟(大友義鎮)に対して、私的な争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発令した。

しかし、島津義久は百姓から成り上がった豊臣秀吉を馬鹿にして惣無事令(そうぶじれい)に従わないため、豊臣秀吉は天正14年(1586年)7月に九州征伐を発動し、黒田官兵衛を軍艦として中国・四国勢を九州へ侵攻させたのである。

天正15年(1587年)3月には豊臣秀吉自らが20万の軍勢を率いて九州へと下向すると、天正15年(1587年)4月に島津義久は降伏し、豊臣秀吉によって九州は平定された。

さて、豊臣秀吉の九州平定により、西日本は統一された。東日本では、徳川家康・上杉景勝・真田昌幸など諸大名が上洛して豊臣秀吉に対して忠誠を誓っていたが、関東の北条氏直と奥州の伊達政宗は未だに上洛していなかった。

そこで、豊臣秀吉は、関東・奥州に対して、私的な戦いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発令し、関東・奥州惣無事令の執行を徳川家康に委ねた。

さて、北条氏直は徳川家康と同盟を結んでいたが、徳川家康が上洛して豊臣秀吉に忠誠を誓うと、豊臣秀吉に対する警戒を強め、箱根にある山中城・韮山城・足柄城の改修を開始していた。

しかし、天正16年(1588年)5月、同盟国の徳川家康からの圧力を受け、北条氏直は惣無事令(そうぶじれい)の受け入れ、穏健派の北条氏規(北条氏政の弟)が上洛して豊臣秀吉に忠誠を誓った。

豊臣秀吉は唐入り(朝鮮出兵)という野望を抱えており、北条氏政か北条氏直を上洛させ、兵を消費せずに北条家を傘下に収めたかった。

豊臣秀吉が北条氏規(北条氏政の弟)に相談すると、北条氏規が「沼田領土問題を解決すれば、北条氏直も上洛するかもしれない」と助言したため、豊臣秀吉は北条氏政・北条氏直を上洛させるため、沼田領土問題の解決に乗り出した。

そこで、天正17年(1589年)、豊臣秀吉は、沼田領土問題の経緯を知っている北条家の板部岡江雪斎を呼び出して事情を聞いた。

北条家の言い分は、「徳川家康と同盟を結んだときに領土を交換し、沼田は北条家の領土となった。しかし、今だに徳川家の者(真田昌幸)が沼田を支配しているので、沼田を明け渡して欲しい」という事であった。

(注釈:真田昌幸は豊臣秀吉に下ると、豊臣秀吉の命令で徳川家康の与力になっていた。)

しかし、沼田領(群馬県沼田市)は真田昌幸が自分の力で切り取った領土で、北条氏直は沼田城攻めに何度も失敗しており、沼田領は真田昌幸の領土とするのが当然であった。

それでも、豊臣秀吉は北条氏直を上洛させるため、北条氏直に大きく譲歩して「沼田領の3分の2を沼田城に付けて北条氏直に与え、3分の1を真田昌幸の領土とする。代替地は、徳川家康が真田昌幸に与える」という裁定を下した。

沼田領に真田家の墳墓は無かったが、豊臣秀吉は「真田家の墳墓がある」という名目で、名胡桃城(なぐるみじょう)を含む沼田の3分の1を真田昌幸の領土とした。

北条側はあくまでも沼田領全域を要求しており、豊臣秀吉の裁定に不服であったが、豊臣秀吉の裁定を拒否すると戦争になる事は目に見えており、仕方なく裁定を受け入れ、豊臣秀吉に北条氏直の上洛を約束した。

これによって長年続いた沼田領土問題が解決し、北条氏直は天正17年(1589年)7月に沼田城を受け取ると、沼田城に北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が沼田城を置いた。

一方、父・真田昌幸は、名胡桃城に家臣・鈴木主水を入れ、沼田領3分の1を管理し、また北条氏政に明け渡した沼田領の代替地として、徳川家康から信濃国伊那郡箕輪(長野県箕輪町)を拝領した。

他方、米沢(山形県)の伊達政宗は天正17年(1589年)6月、惣無事令(そうぶじれい)を無視して、会津(福島県)の蘆名義広を攻め滅ぼした(摺上原の戦い)。

■名胡桃城事件と小田原征伐の発動
長らく続いた沼田領土問題は、豊臣秀吉の裁定によって解決し、北条氏直は沼田城を受け取り、上洛を約束したが、未だに上洛はしていなかった。

そのようななか、天正17年(1589年)11月12日、沼田城の城主・猪俣邦憲が、突如として真田家の名胡桃城を乗っ取るという事件が起きたのである(名胡桃城事件)。

北条氏直は未だに上洛しておらず、豊臣秀吉は名胡桃城事件に激怒する。

北条氏直は「猪俣邦憲の独断であり、北条家は与り知らぬところ」「徳川家康に対しては、生母・大政所を人質として差し入れた。北条も保証が欲しい」なとど百方弁を尽くして釈明した。

しかし、豊臣秀吉は北条の釈明を一切、受け入れず、名胡桃城事件を惣無事令(そうぶじれい)違反として、天正17年(1589年)12月13日に小田原征伐(北条征伐)を発動したのである。

■軍師・黒田官兵衛が小田原討伐を開始
天正18年(1590年)2月、豊臣秀吉は全国の諸大名に号令をかけ、総軍22万による小田原征伐が始まる。

豊臣秀吉自身もは天正18年(1590年)3月1日に、3万2000の大軍を率いて京都にある聚楽第を出発。そして、豊臣秀吉は、天正18年3月19日には駿府城へ入り、天正18年3月27日には三枚橋城(静岡県沼津市)に入った。

このとき、九州は遠地だったため、豊臣秀吉は九州の大名には派兵を命じなかった。(注釈:九州の諸大名は、朝鮮出兵の主力部隊になるため、温存された。)

このため、豊前の大名・黒田長政は居城・中津城(大分県中津市)に留まったが、黒田長政の父・黒田官兵衛は小勢を率いて豊臣秀吉に従軍して小田原征伐に参加した。

一方、豊臣秀吉を迎え撃つ北条氏政は、箱根にある山中城・韮山城・足柄城を改修しており、箱根で豊臣秀吉を迎え撃つ準備を整えていた。

なかでも、箱根の要所にある山中城は、北条家の重臣・松田康長(松田右兵衛大夫)が北条家の築城技術を結集して大改修し、要害を築いていた。

山中城は天正15年に行われた大改修で東海道を取り込み、山中城の中に東海道が通る形になっており、東海道を通るためには、山中城を通らなければならなかった。いわば、山中城は東海道の関所であった。

豊臣秀吉が小田原を攻めるためには、東海道上にある山中城を通らなければならず、小田原征伐の成否は山中城の攻略にかかっていた。

そして、箱根の要所にある山中城は、改修を担当した松田康長がそのまま山中城の城主となり、豊臣秀吉に備えた。

そこへ、玉縄城の城主・北条氏勝(北条左衛門大夫)が援軍に駆けつけた。さらに、小田原城から援軍に来た間宮康俊(間宮豊前)・朝倉景澄(朝倉能登)が加わり、山中城の兵力は4000に膨れあがっていた。

このとき、山中城での軍議を終えた援軍の朝倉景澄(朝倉能登)は、友人に「修繕はしているが、山中城の作りでは大軍を防げない。我らを山中城に差し向けたということは、もはや我らに用は無いということじゃ」と不満を漏らしたという。

さて、山中城を攻めるのは、豊臣軍の先方隊を務める豊臣秀次であった。先方隊の総大将・豊臣秀次は、徳川家康を相談役に迎え、7万の大軍を率いて東海道を進み、山中城へと迫ったのである。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ豊前編「軍師・黒田官兵衛-山中城の戦いと一柳直末の死、小田原評定と石垣山一夜城のあらすじとネタバレ」へ続く。

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(私にとっては)複雑なお家関係―人間関係―NHKとは違った解釈、面白く読ませていただいてます。

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