黒田官兵衛(黒田如水)と宮本武蔵と関ヶ原の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ番外編「黒田官兵衛(黒田如水)と宮本武蔵と関ヶ原の戦いあらすじとネタバレ」です。

宮本武蔵に関する資料はあまり存在せず、詳しいことは分からないが、宮本武蔵は関ヶ原の合戦のとき、黒田官兵衛(黒田如水)に従軍して九州で働いていたという説が有力である。そこで、宮本武蔵の通説と伝承を交えて、宮本武蔵の関ヶ原の戦いを紹介する。

■宮本武蔵の生まれ
播磨(兵庫県)の守護大名・赤松氏の一族に、播磨の地侍・田原氏が居た。田原家貞のとき、播磨は豊臣秀吉の侵攻を受け、豊臣秀吉が三木城を攻め落とすと、田原家貞は西へと逃れ、播磨国印南郡米田村(兵庫県高砂市米田町米田の周辺)に土着した。

そして、宮本武蔵は天正12年(1584年)ごろ、播磨国印南郡米田村で、田原家貞の次男として生まれた。

播磨国印南郡米田村は、黒田官兵衛の本拠地・姫路城から南東へ約15km離れた場所にあり、田原家貞は黒田官兵衛と同様に御着城の城主・小寺政職に仕えた(注釈:姫路城の城主・黒田官兵衛は小寺政職に仕え、小寺官兵衛を名乗っていた)。

そして、田原家貞の死後、宮本武蔵は何らかの縁で、美作国(岡山県)の地侍・平田武仁(新免無二)の養子となった。

■宮本武蔵の義父・新免無二
美作国(岡山県)の豪族に新免という一族が居た。新免家の当主・新免宗貫は、竹山城(岡山県大原町)の城主で、宇喜多秀家の傘下に入っていた。

その新免宗貫の家臣に家老職を務めた平田将監という人が居り、平田将監の子に平田武仁(新免無二)が居た。平田武仁は、十手や剣術の達人で、後に宮本武蔵の義父になる人物である。

あるとき、平田武仁は将軍・足利義昭の御前試合において、吉岡憲法と3本勝負を行い、1本は吉岡憲法が勝利したものの、2本は平田無二が勝利したため、平田武仁は「日下無双」の称号を賜った。

また、平田無二は、主君の新免宗貫から新免姓を賜り、以降は「新免無二」を名乗るようになった。

しかし、天正17年(1589年)、新免無二は主君・新免宗貫の命令で、新免家の次席家老・本位田外記を誅殺(騙し討ち)したため、新免無二は評判を落として、美作国(岡山県)に居られなくなり、播磨(兵庫県)へと渡って黒田官兵衛に仕えた。

そこで、新免無二は、何らかの縁で、宮本武蔵を養子に迎えた。

■宮本武蔵
新免無二は十手や剣術を得意とし、当理流という剣法を開いており、宮本武蔵は新免無二から剣術を学んだが、宮本武蔵は新免無二の剣法を馬鹿にしたため、新免無二は宮本武蔵を勘当した。

以降、宮本武蔵は単独で剣術を磨き、13歳の時に初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘して勝利し、16歳の時に但馬国の兵法家・秋山に勝利した。

一方、黒田官兵衛に仕えていた新免無二は、九州征伐で豊前6郡(福岡県東部と大分県の一部)を拝領した黒田官兵衛に付いて豊前へと渡り、黒田家の家臣・黒田兵庫助(黒田利高)の与力となった。

しかし、黒田兵庫助(黒田利高)は朝鮮出兵中に病気になり、文禄5年(1596年)に死亡すると、新免無二は、黒田兵庫助の嫡子・黒田政成の与力となった。

その後、新免無二は関ヶ原の合戦の前に宮本武蔵を許して勘当を解き、宮本武蔵を豊前へと呼び寄せると、宮本武蔵も黒田政成の与力となった。

■宮本武蔵の関ヶ原の合戦
慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の合戦のとき、黒田家の当主・黒田長政は手勢を率いて東軍・徳川家康に従軍した。

九州のほとんどは西軍だが、留守兵しか残っていなかったため、豊前・中津城に残った黒田官兵衛(黒田如水)は金銀財宝を放出して、兵士を集めて挙兵した。

新免無二と宮本武蔵の親子は、関ヶ原の合戦の時も黒田政成の与力として豊前に居り、黒田官兵衛(黒田如水)に従軍し、黒田政成の先手を努めた。

豊前・中津城(大分県中津市)で挙兵した黒田官兵衛は、豊後(大分県)へと侵攻し、石垣原で大友義統を破り、大友義統を降伏させた(注釈:石垣原の戦いでも宮本武蔵が戦ったという伝承が残っている)。

その後、黒田官兵衛は豊前にある富来城(大分県国東市)を包囲したとき、宮本武蔵は黒田政成の先手として戦っている。

宮本武蔵は黒田政成から2町ほど先駆けし、富来城三の丸の石垣を駆け上がり、城壁へ取り付いたとき、城壁に空いている穴(鉄砲狭間)から槍で攻撃された。

宮本武蔵はこの槍で太ももを負傷したため、激怒し、石垣の下に居る仲間に「この槍を取ってやる」と宣言した。

そして、宮本武蔵は再び城壁の穴に太ももを当てると、予想通り、敵兵が槍で突いてきて、再び太ももを突き刺されたので、槍を掴んで引き抜こうとした。

敵兵も槍を取られまいとして、槍の奪い合いになったので、宮本武蔵は槍の柄の先から60センチほどの所で槍を折り、宣言通りに「槍を取ったぞ」と自慢した。

仲間は「血を止めなければ」と驚いたが、宮本武蔵は馬の糞を傷口に塗ると、再び城攻めに加わり、働いた。

結局、富来城は、関ヶ原の戦いに参加していた城主・垣見一直から「開城せよ」という手紙が来たため、黒田如水(黒田官兵衛)に降伏した。

■宮本武蔵のその後
徳川家康に従軍して関ヶ原の合戦に従軍していた黒田長政は、小早川秀秋を東軍に寝返らせるなどの活躍をして、筑前1国を賜り、筑前(福岡県)へと移った。

しかし、新免無二と宮本武蔵は、筑前へと移らずに黒田家を出た。

その後、宮本武蔵は京都で吉岡一門と戦い、慶長17年(1612年)には巌流島で佐々木小次郎を破って名を上げた。

なお、宮本武蔵は、慶長19年(1614年)、大坂の陣のとき、三河刈谷藩主・水野勝成の軍に居り、嫡子・水野勝重付きの武将として戦い、活躍した。

また、宮本武蔵は、寛永14年(1637年)、島原の乱のとき、中津城主・小笠原長次に従い、19人を率いて島原の乱の鎮圧に出陣したが、石が当って活躍は出来なかった。

宮本武蔵も義父・新免無二は剣豪として知られているが、既に鉄砲が普及していたので、合戦では活躍できず、「鉄砲が無ければ、最強だった」と言い残したと伝わる。

実話「黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレは「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

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