黒田兵庫助(黒田利高)の生涯
NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛の生涯を実話で描く「実話・軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田家臣伝「黒田兵庫助(黒田利高)の生涯」です。
黒田兵庫助は、黒田官兵衛の実弟で、黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人である。さらに、黒田24騎から選ばれた黒田八虎の1人である。
■黒田兵庫助(黒田利高)の生涯
黒田兵庫助は本名を「黒田利高」と言う。幼名を「黒田小一郎」と言い、後に「黒田兵庫助」を名乗った。
黒田兵庫助は天文23年(1554年)に、黒田職隆の次男として、姫路で生まれた。母親は明石氏で、兄の黒田官兵衛と父も母も同じである。
織田信長による播磨侵攻のとき、黒田官兵衛と共に播磨に侵攻してきた羽柴秀吉に仕え、黒田兵庫助は羽柴秀吉の馬回りを勤めた。
黒田兵庫助は播磨各地の戦で手柄を上た。天正8年(1580年)、羽柴秀吉の軍勢が町坪城(兵庫県姫路市町坪)の城主・町坪弾五郎(町坪重種)を攻め滅ぼすと、黒田兵庫助が町坪城を任された。
黒田兵庫助は黒田家から独立した城主として岸和田の戦いや四国征伐に加わり、その後、黒田家に戻った。
黒田兵庫助は、豊臣秀吉による九州征伐で黒田官兵衛の先手を努めて活躍し、豊前に入国すると1万石を拝領して高森城の城主となった。
黒田兵庫助は、温厚な人物で黒田長政の後見人を務た。黒田長政が黒田家の当主になると、道で黒田長政とすれ違う事があれば、必ず馬を下りて平伏し、他の家臣に手本を示したと伝わる。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、黒田長政に従って朝鮮半島に渡って、所々の戦いで手柄を上げたが、朝鮮半島で病気になった。朝鮮出兵が休戦となると、帰国して大阪で養生していたが、文禄5年(1596年)5月に死んだ。
黒田兵庫助(黒田利高)は黒田24騎で、黒田八虎の筆頭だが、次男だったためか、あまり資料が無いので、詳しい活躍は分からない。また、豊前時代にキリスト教に入信したとされるが、詳細は分からない。
■黒田兵庫助(黒田利高)の子孫
黒田兵庫助の死後、長男・黒田政成が後を継いだ。黒田兵庫助が剣豪・宮本武蔵の父・新免無二を呼び寄せ、家臣に剣術を習わせていた影響で、宮本武蔵と新免無二の親子は黒田政成の与力となった。
関ヶ原の戦いのとき、黒田政成は豊前に居り、中津城で挙兵した黒田如水(黒田官兵衛)に従軍して、九州征伐で手柄を立てた。このとき、宮本武蔵は黒田政成の先手を勤めたと伝わっている。
(注釈:宮本武蔵と黒田如水の伝承については「黒田官兵衛(黒田如水)と宮本武蔵と関ヶ原の戦い」をご覧ください。)
さて、黒田政成は筑前に入国後、1万4000石を拝領し、嫡男の黒田政一が4000石を引き継いだが、その後、領地を没収された。しかし、孫・黒田義生のとき、再び1000石で黒田家に召し抱えられ、明治まで続いた。
黒田官兵衛や黒田家家臣については「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。