豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)のあらすじとネタバレ
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)のあらすじとネタバレ」です。
このページは「軍師・黒田官兵衛-松田直秀の処刑と松田直秀の切腹」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■豊臣秀吉の朝鮮出兵(唐入り)
天正18年(1590年)、小田原征伐を終えた豊臣秀吉は、東北(奥州)仕置きを行って天下統一の覇業を成し遂げると、朝鮮出兵(唐入り)の準備に入った。
朝鮮出兵(唐入り)とは、李氏朝鮮(朝鮮半島を治める国家)を従えて、明(中国)に攻め入るという計画である。
豊臣秀吉は、李氏朝鮮(朝鮮半島)や明(中国)だけでなく、小琉球(フィリピン諸島)やインドまでも支配下に置く、壮大な構想を持っていたとされ、朝鮮出兵(唐入り)は豊臣秀吉の壮大な計画の1つであった。
さて、豊臣秀吉による朝鮮出兵(唐入り)の構想は、天下統一の3年前、九州征伐の時から始まっていた。
天正15年(1587年)5月8日、豊臣秀吉は九州の大名・島津義久を討伐し、九州平定を成した(九州征伐)。その後、豊臣秀志は筑前筥崎(福岡市東区箱崎)へ凱旋し、戦後処理を行った。いわゆる「九州国分」である。
対馬を治める宗義調(そう・よししげ)は、九州征伐で豊臣秀吉に従ったため、戦後処理の「九州国分」で対馬1国を安堵された。
九州を平定した豊臣秀吉は、直ちに李氏朝鮮の討伐を開始しようとしたが、李氏朝鮮との貿易を独占していた対馬の宗義調が豊臣秀吉の朝鮮出兵を止めた。
宗義調の意見を受け入れた豊臣秀吉は、李氏朝鮮の討伐を延期する代わりに、対馬の宗義調に「李氏朝鮮の国王を上洛させろ。上洛が遅れた場合は直ちに討伐を開始する」と命じた。
その一方で、豊臣秀吉は、島津義久を通じて琉球王国(沖縄県)にも上洛を命じ、小琉球(フィリピン諸島)にも親書を送った。
その後、宗義調の再三に渡る要請により、李氏朝鮮は日本へ朝鮮通信使を派遣することを決定し、天正18年(1590年)7月21日に李氏朝鮮の正使・黄允吉(ホアンユンギル)や副使・金誠一(キムソンイル)が京都に到着する。
しかし、豊臣秀吉は小田原征伐で出陣しており、天正18年7月5日に北条氏直が豊臣秀吉に克服したばかりで、李氏朝鮮の正使・黄允吉が京都に着いたとき、豊臣秀吉は関東に居た。
関東の北条家を滅ぼした豊臣秀吉は会津(福島県)の黒川城まで巡行しており、豊臣秀吉が李氏朝鮮の正使・黄允吉(ホアンユンギル)らと面会したのは、会津の黒川城から京都へ凱旋した後の天正18年(1590年)11月7日の事であった。
なお、豊臣秀吉は会津から京都へと戻る途中に駿府へ立ち寄り、駿府で毛利吉成(別名:毛利勝信)と小西行長に、朝鮮出兵の準備を命じている。
天正18年(1590年)11月7日、豊臣秀吉は京都にある聚楽第で、李氏朝鮮の正使・黄允吉(ホアンユンギル)らと対面した。
豊臣秀吉は、李氏朝鮮の国王こそ上洛しなかったものの、正使・黄允吉(ホアンユンギル)らが国書を持って上洛したため、李氏朝鮮が日本の朝廷に服従したものと考えていた。
そして、豊臣秀吉にとって李氏朝鮮は中国大陸進出の足がかりに過ぎず、豊臣秀吉は李氏朝鮮の正使・黄允吉(ホアンユンギル)に対して「征明嚮導(せいみんきょうどう)」を求めた。
この時代の中国は明王朝が支配しており、中国は「明(みん)」と呼ばれていた。したがって、征明嚮導(せいみんきょうどう)とは、「明(中国)を征服をするさい、先導を務めよ」という意味である。
しかし、李氏朝鮮は明(中国)の属国であり、豊臣秀吉に従属する意思は無かった。李氏朝鮮の正使・黄允吉(ホアンユンギル)が持参した国書は、豊臣秀吉の天下統一を祝う祝辞に過ぎなかったのだ。
つまり、このとき、豊臣秀吉は「李氏朝鮮は正使を上洛させたので、豊臣政権に降った」と考えていたが、李氏朝鮮は「豊臣秀吉の天下統一の祝辞を述べる正使を送ったの過ぎない」と考えていたのだ。
豊臣秀吉と李氏朝鮮との間に、解釈の違いが生じたのは、両者の仲介を務めた対馬の大名・宗義調が双方に都合が良いように説明したからであった(欺瞞外交)。
対馬の宗義調は、上洛を拒否する李氏朝鮮には「形だけでも京都へ正使を送ってくれ」と頼んでおき、豊臣秀吉には「李氏朝鮮は正使を送り、従属する意思を示しました」と説明したのだ。
その結果、李氏朝鮮が服従したと思い込んだ豊臣秀吉は、対馬の柳川調信(やながわ・しげのぶ)と景轍玄蘇(けいてつ・げんそ)の2人を使者として李氏朝鮮へと派遣する。
(注釈:柳川調信は対馬の大名・宗義調の重臣で、景轍玄蘇は対馬の外交僧である。)
柳川調信と景轍玄蘇の2人は、豊臣秀吉から国書を受け取った正使・黄允吉(ホアンユンギル)らとともに、李氏朝鮮へと渡り、李氏朝鮮に対して豊臣秀吉の意向を伝えた。
このとき、柳川調信らは、豊臣秀吉が要求する「征明嚮導(せいみんきょうどう)」を「仮道入明(かどうにゅうみん)」へと要求を緩和し、李氏朝鮮に通行許可を求めた。
仮道入明(かどうにゅうみん)とは、「明へ攻め入る際に道を貸せ」という意味である。なお、「仮道入明」を「仮途入明」と表記することもある。
つまり、柳川調信らは、豊臣秀吉の「明討伐の歳に先導せよ(戦争協力)」という命令を、「明討伐のさいに道を貸せ(通行許可)」という許可申請に変更して李氏朝鮮と交渉したのである。
■千利休の切腹
天正19年(1591年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵を前に、突如として千利休に切腹を言い渡した。
千利休の門弟は必死に千利休の助命嘆願を行ったが、豊臣秀吉は千利休を許さず、天正19年(1591年)2月に千利休は京都にある聚楽第で切腹した。
豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた理由は諸説あるが、一番有名な通説は「大徳寺三門の修繕を担当した千利休が、楼門の二階に千利休の木像を設置し、豊臣秀吉に楼門の下を通らせた」である。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「朝鮮出兵(唐入り)の征明嚮導と仮道入明のあらすじとネタバレ」へ続く。