小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由は黒田官兵衛

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由は黒田官兵衛のあらすじとネタバレ」です。

このページは「朝鮮出兵(唐入り)の征明嚮導と仮道入明のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■小早川秀秋と黒田官兵衛
天正18年(1590年)7月、小田原征伐に従軍した軍師・黒田官兵衛(黒田如水)は、豊臣秀吉の関東仕置・東北仕置には同行せず、小田原城の北条家が降伏すると、本拠地の豊前・中津城へと帰った。

黒田官兵衛は嫡男・黒田長政に家督を譲って以降、京都にある猪熊邸で過ごすことが多くなっており、その後、黒田官兵衛は再び上京して、京都で年を越し、天正19年(1591年)正月を迎えた。

天正19年(1591年)春、黒田官兵衛は豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)に呼び出され、相談を受けた。相談は、養子・小早川秀秋(木下秀俊)の事であった。

小早川秀秋は、正室「北の政所」の実兄・木下家定の5男として近江国(滋賀県)で生まれた。小早川秀秋は非常に利発な少年だったため、北政所が小早川秀秋を気に入り、豊臣秀吉に請願して小早川秀秋を養子に迎えて寵愛していた。

小早川秀秋は諸大名から敬意を受けていたが、天下を統一した豊臣秀吉は既に豊臣秀次を後継者に決め、養子の整理を始めていたのであろう。ともかく、北政所は黒田官兵衛に「頃合いを見て、小早川秀秋にどこかの大名を継がせたい」と相談したのである。

さて、北政所から相談を受けた黒田官兵衛は、中国地方の大名・毛利輝元には跡継ぎが居ない事を気にしていたので、小早川秀秋に毛利輝元の後を継がせようと考えた。

そのようななか、黒田官兵衛の元に讃岐(香川県)の大名・生駒親正が遊びに来たので、黒田官兵衛は生駒親正に「貴殿は毛利輝元と親交が深いため、毛利家を粗略にしないと思うので申し上げる。毛利輝元には跡継ぎが居ない。小早川秀秋を跡継ぎにすれば、全て上手く行くと思うのだが、どうであろう」と相談した。

黒田官兵衛の考えに賛成した生駒親正は、毛利家の重臣・小早川隆景の元を訪れ、小早川秀秋を毛利輝元の養子にするという話を相談した。

しかし、中国の毛利家は鎌倉時代から続く名門だったため、毛利家の重臣・小早川隆景は、名門・毛利家の血を絶やしたくないと考えており、穂井田元清の長男・宮松丸(後の毛利秀元)を毛利輝元の養子に迎え、毛利輝元の後を継がせる計画を内々に進めていたのである。

(注釈:穂井田元清は毛利元就の4男で、長男・宮松丸は毛利元就の孫にあたり、毛利元就の血を継いでいる。)

このため、小早川隆景は生駒親正からの打診に驚き、豊臣秀吉からの正式な話が来る前に、自ら豊臣秀吉の元を訪れ、「そろそろ、隠居するので、小早川秀秋を養子に賜りたい」と請願した。

小早川隆景は毛利家の重臣だが、筑前30万石を有する独立した大名でもあったので、豊臣秀吉は小早川隆景の申し出に喜び、直ちに小早川秀秋を養子とする事を許した。

また、小早川隆景は頃合いを見計らって、「宮松丸(毛利秀元)を毛利輝元の養子にしたい」と願い出ると、豊臣秀吉はこれも許可した。

そして、小早川隆景は、朝鮮出兵が始まる直前の文禄元年(1592年)に、小早川秀秋を養子とした。小早川秀秋は小早川隆景の養子となり、「小早川秀秋」と改名した。

これに怒った毛利の外交層・安国寺恵瓊は、小早川隆景に「筑前は毛利の分国となるべきものなのに、どうして小早川秀秋を養子に迎え、筑前を譲るのか」と問うた。

すると、小早川隆景は「毛利家は8カ国を有しており、これに筑前を加えれば、9カ国となる。毛利家が国を多く持てば、豊臣秀吉に睨まれるので、かえって毛利家の災いとなる。だから、私は筑前を毛利の子孫に譲らずに、小早川秀秋に譲るのだ」と答えた。

安国寺恵瓊は小早川隆景の理に屈し、「短才のため、つまらないことを申し上げて、面目を失いました。しかれども、後学の為に良きことを学びました」と答えた。

しかし、安国寺恵瓊は関ヶ原の合戦のとき、小早川隆景の戒めを忘れて石田三成に与し、毛利輝元に天下取りを勧めて、終いには身を滅ぼした。

小早川隆景は遺言で「毛利輝元は天下を保つ器では無いので、領土を守って失わないように努力すること。安国寺恵瓊を信じれば、必ず国を失う」と戒めた。

しかし、毛利輝元は関ヶ原の合戦のとき、小早川隆景の遺言を忘れて、安国寺恵瓊の言葉に載せられ、西軍の総大将となり、終いには領土の多くを失った。

さて、文禄4年(1595年)、小早川秀秋は、関白・豊臣秀次の関係者が粛正された豊臣秀次事件に連座して、亀山城を没収されたが、同年、小早川隆景が隠居したため、小早川秀秋は筑前30万石を引き継いだ。

こうして、小早川秀秋は筑前30万石の大名と成り、第2次朝鮮出兵(慶長の役)では日本軍の総大将を務めた。

このように、小早川秀秋が小早川隆景の養子に成り、筑前30万石の大名に成れたのは、軍師・黒田官兵衛(黒田如水)の周旋がってこそなので、小早川秀秋は黒田官兵衛に感謝した。

関ヶ原の合戦のとき、毛利家のしがらみで西軍についていた小早川秀秋が、黒田長政の勧誘を受けて東軍に寝返るのは、小早川秀秋がが黒田官兵衛に感謝していたからであった。

■豊臣秀吉と毛利秀元
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)へ向かう途中に広島へ立ち寄り、毛利輝元の養子・宮松丸(毛利秀元)と面会した。

このとき、豊臣秀吉は「宮松丸は、毛利輝元の跡継ぎなのか、それとも単なる養子なのか」と問うた。

すると、豊臣秀吉を接待していた毛利の外交僧・安国寺恵瓊は、「それは秀吉様がお決めになる事でございます。毛利輝元は、そう申しておりました」と答えた。

これに気を良くした豊臣秀吉は「宮松丸が毛利家の跡継ぎに相応しいと思うのであれば、毛利家の跡継ぎにすれば良かろう」と言い、宮松丸に「秀」の1字を与えた。

こうして、豊臣秀吉に毛利家の後継者として認められた宮松丸は、豊臣秀吉から「秀」の字を貰い受け、元服して「毛利秀元」と改名した。

しかし、文禄4年(1595年)、毛利輝元に嫡男・松寿丸(毛利秀就)が誕生すると、養子の毛利秀元は家督相続を辞退した。そして、関ヶ原の合戦の後、毛利秀就が毛利家の家督を相続した。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「豊臣秀吉が朝鮮出兵(唐入り)を発動したあらすじとネタバレ」へ続く。

コメントを投稿する

コメントは正常に投稿されていますが、反映に時間がかかります。