朝鮮出兵(唐入り)と李氏朝鮮の状況
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「朝鮮出兵の時の李氏朝鮮の状況のあらすじとネタバレ」です。
このページは「豊臣秀吉が朝鮮出兵(唐入り)を発動したあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■朝鮮の発祥
古代・中国に周という時代(紀元前1020年ごろ)があり、周王朝の武王は「箕子(きし=中国の政治家の名前)」を朝鮮半島に封じて朝鮮王とした。これが朝鮮(箕子朝鮮)の始まりとされる。
その後、朝鮮半島は4世紀頃に、朝鮮半島北部の「新羅(しんら)」、朝鮮半島南西側の「百済(くだら)」、朝鮮半島南東側の「高麗(こうら)」の3国に別れ、三国時代を迎えた。
しかし、7世紀に入ると、朝鮮半島北部の「新羅(しんら)」が、唐(中国)の支援を受け、朝鮮半島を統一した。
古来より中国は「冊封体制(さくほうたいせい)」と言い、近隣諸国の支配者に「王」の称号を与え、近隣諸国を支配下に置く政策を採っていた。
このため、唐(中国)の支援を受けた新羅(しんら)は、唐(中国)の冊封国(属国)となった。
以降、朝鮮は、1895年(明治28年)に日本が日清戦争で清(中国)に勝利するまで、中国の属国を続けた。朝鮮が中国の属国だった期間を俗に「千年属国」と呼ぶ。
豊臣秀吉が朝鮮出兵(唐入り)を行った文禄元年(1592年)、朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮も明(中国)の属国であった。
■朝鮮出兵時の日本の状況
日本も中国に遣隋使や遣唐使を送り、朝貢国(貿易国)として中国と交易をしていた。
その後、日本は室町時代に「日本国王」との称号を受けて、一時的に中国の冊封国(属国)となっていたが、冊封国から抜けた。
なお、明(中国)は、第1次朝鮮出兵の休戦中に、豊臣秀吉に「順化王」の称号を贈り、日本を冊封国(属国)にしようとしたが、豊臣秀吉はこれを受け入れず、第2次朝鮮出兵を行った。
■朝鮮出兵時の琉球王国の状況
豊臣秀吉による朝鮮出兵のとき、琉球王国(沖縄県)は、中国の冊封国(属国)であったが、薩摩藩(鹿児島県)・島津家の要請により、天下を統一した豊臣秀吉に祝賀の使者を送った。
この結果、豊臣秀吉は、琉球王国(沖縄県)が日本に帰順したと考え、朝鮮出兵の兵役は免除したが、食料の負担を命じた。
その結果、琉球王国(沖縄県)は、中国の冊封国(属国)であったが、薩摩藩(鹿児島県)へと食料を送った。
このとき、琉球王国(沖縄県)を訪れていた明(中国)の商人が、豊臣秀吉の朝鮮出兵計画を入手し、明(中国)に報告した。
なお、琉球王国は慶長14年(1609年)3月に薩摩藩・島津家の侵攻を受け、薩摩藩の付属国となった(琉球征伐)。
■朝鮮出兵時の李氏朝鮮の状況
豊臣秀吉が朝鮮出兵(唐入り)を行うとき、李氏朝鮮王朝が朝鮮半島を支配していた。
李氏朝鮮は、李成桂(イ・ソンゲ)が1392年に高羅王を排して建国した王朝である。
中国は、近隣諸国の支配者に「王」の称号を与え、従属させる政策「冊封体制(さくほうたいせい)」を採っており、朝鮮半島は7世紀後半から代々、中国の冊封国(属国)となっていた(朝鮮の千年属国)。
このため、高羅王から王位を受け継いだ李成桂(イ・ソンゲ)は、首都を開城(ケソン)から漢城(ハンソン=現在のソウル)へと移し、明(中国)に使者を送って王座交代の許可を受け、明の薦めによって国号を「朝鮮」と改めた。
こうして、李氏朝鮮は、明(中国)の冊封国(属国)となり、明(中国)に従属することで、長らく争いの無い平和な時代を迎えることになる。
さて、李氏朝鮮は、朝鮮半島を8つの行政区分に分けて支配する中央集権国家であった。この8つに分けた行政区分を「朝鮮八道」と言う。
豊臣秀吉は提出された朝鮮半島の地図を見ても文字(朝鮮語)が読めなかったため、朝鮮半島の地図を屏風に描かせ、朝鮮八道を6色に色分けして、色の名前で呼んだ。
京畿道(キョンギド)=青国
忠清道(チュンチョンド)=青国
慶尚道(キョンサンド)=白国
全羅道(チョルラド)=赤国
江原道(カンウォンド)=黄国
平安道(ピョンアンド)=黄国
黄海道(ファンヘド)=緑国
咸鏡道(ハムギョンド)=黒国
さて、長らく戦の無い平和な時代を迎えた李氏朝鮮は、「東人派」と「西人派」とが政権を争っていた。
李氏朝鮮が豊臣秀吉からの再三の上洛要請に応じて朝鮮通信使を京都へ派遣したとき、西人派が李氏朝鮮の政権を握っていた。
このため、西人派の黄允吉(ホアン・ユンギル)が朝鮮通信使の正使を務め、東人派の金誠一(キム・ソンイル)が朝鮮通信使の副使を務めた。
朝鮮通信使は、豊臣秀吉に日本統一の祝辞を述べる目的の他に、日本を視察するという目的があり、帰国後、西人派の正使・黄允吉は「豊臣秀吉が朝鮮に攻めてくる」と報告した。
しかし、東人派の副使・金誠一は「豊臣秀吉は攻めてこない」と報告し、朝鮮通信使の意見が別れた。
李氏朝鮮が朝鮮通信使を日本へ派遣した時は西人派が政権を握っていたのだが、朝鮮通信使が帰国した時は東人派が李氏朝鮮の政権を握っていたため、東人派の副使・金誠一の「豊臣秀吉は攻めてこない」という報告が採用された。
このため、李氏朝鮮は「豊臣秀吉は攻めてこない」と考えており、豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して何の備えもしていなかったのである。
一方、明(中国)は、琉球王国(沖縄県)へ行っていた明の商人から「李氏朝鮮を先手として、豊臣秀吉が明に攻めてくる」という報告を受け、李氏朝鮮に説明を求めた。
李氏朝鮮は明(中国)に「日本は攻めてこない」と説明したため、明(中国)は李氏朝鮮に「海上の警備を強化するように」と指示するにとどめた。
明(中国)は冊封国(属国)の李氏朝鮮を救済する義務があったが、李氏朝鮮の説明に反して日本軍が李氏朝鮮へと侵攻したため、明(中国)は李氏朝鮮を信用せず、「李氏朝鮮が日本の先手として攻めてくるのではないか」と警戒し、李氏朝鮮の救済に乗り出さなかった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「朝鮮出兵-小西行長の抜け駆けのあらすじとネタバレ」へ続く。