小西行長と加藤清正が李氏朝鮮の首都・漢城を占領
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小西行長と加藤清正が李氏朝鮮の首都・漢城を占領のあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田長政と加藤清正の朝鮮出兵のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■首都・漢城を占領
青国(忠清道)にある忠州で開かれた軍議において、1番隊・小西行長と2番隊・加藤清正とが、先陣を主張して大喧嘩となった。
しかし、2番隊・鍋島直茂の仲裁により、1番隊・小西行長が西の「遠いが易道」を進み、2番隊・加藤清正は東の「近いが難道」を進み、首都・漢城(ハンソン)へ攻め入る事になった。
これまで1番隊・小西行長に抜け駆けされていた2番隊・加藤清正はその日の夜、密かに軍を発して「近いが難道」を進んだが、漢江(大河の名前)を渡れずに足止めを食らった。
1番隊・小西行長は、2番隊・加藤清正の抜け駆けに気づき、慌てて出発した。1番隊・小西行長が進んだ道は遠回りであったが、難所がなかったため、2番隊・加藤清正が漢江で足止めされている間に首都・漢城(ハンソン)へと到達する。
そして、文禄元年(1592年)5月3日、1番隊・小西行長が東大門から漢城(ハンソン)へ入城する。同日、続いて2番隊・加藤清正が南大門から漢城へ入城する。
しかし、1番隊・小西行長が李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン)へ入ったとき、既に朝鮮王の一族は首都の漢城を捨てて逃走していた。
首都・漢城(ハンソン)は、李氏朝鮮の奴隷身分の者が役所を襲って奴隷戸籍を焼き払い、住民が金銀財宝を奪った後で、建物は焼かれ、民衆は逃げており、廃墟と化していた。
なお、1番隊・小西行長が文禄元年(1592年)5月3日に首都・漢城(ハンソン)に1番乗りしたが、2番隊・加藤清正は豊臣秀吉への手紙で「5月2日戌の刻に漢城へ入った」と報告している。
5月2日として報告した原因は、手柄を欲しいため加藤清正が日付を誤魔化したとも、日本歴と朝鮮歴の違いが理由とも言われている。
■黒田長政の漢城入城
文禄元年(1592年)5月4日には、3番隊・黒田長政や4番隊・毛利吉成らが漢城への無血入城を果し、その後も続々と日本軍が漢城への入城を果たした。
3番隊・黒田長政は首都・漢城(ハンソン)に到着したとき、首都・漢城が既に落城している事を知らず、足軽に命じて、代わる代わる鉄砲を撃たせたが、漢城からの反撃は無く、何の音もしなかった。
そこで、黒田長政の先手が漢城に入り、敵を探して走り回ったが、敵は居らず、黒田長政は抵抗を受けること無く、首都・漢城(ハンソン)に入った。
■朝鮮人の暴動
文禄元年(1592年)4月13日に朝鮮半島の釜山(プサン)に上陸した日本軍は、文禄元年(1592年)5月3日に李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)を占領した。日本軍は、わずか1ヶ月で、李氏朝鮮の首都を占領したのだ。
李氏朝鮮は長らく圧政と厳しい身分制度で人民を支配していたため、奴隷身分の朝鮮人は日本軍を解放軍として歓迎し、朝鮮半島の各地で李氏朝鮮王朝に対して暴動を起こした。
様々な身分の朝鮮人が日本軍に投降し、奴隷身分の朝鮮人は日本軍の先手となって、李氏朝鮮軍を攻めた。
一方、首都・漢城(ハンソン)を捨てて平壌(ピョンヤン)への逃げた李氏朝鮮王朝は、明(中国)の冊封国(属国)なので、明(中国)に救援を求めた。
しかし、明(中国)は、李氏朝鮮を信用しておらず、「李氏朝鮮は日本軍の手先となって明(中国)に攻めてくるのではないか」と疑い、李氏朝鮮の救済を行わなかった。
■石田三成の朝鮮出兵
李氏朝鮮は明(中国)の冊封国(属国)だったので、日本が李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)を占領したら、明が大軍を率いて李氏朝鮮に乗り出すであろう。
豊臣秀吉は明軍(中国軍)に備えて8番隊・宇喜多秀家らのほか、石田三成・増田長盛・大谷吉継・前野長康・浅野幸長などを計6万の軍勢を朝鮮に追加派遣した。
日本軍は1番隊から7番隊までの計13万人の軍勢が既に朝鮮半島へ渡っており、8番隊・宇喜多秀家の6万人を加えて、日本軍は19万人へと膨れあがる。
そして、豊臣秀吉は宇喜多秀家を日本軍の総大将とし、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行を軍事奉行と定め、先陣は1番隊・小西行長、2番隊・加藤清正、3番隊・黒田長政の3人が代わる代わる勤める事を命じた。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政の朝鮮八道の征伐のあらすじとネタバレ」へ続く。