豊臣秀吉が黒田官兵衛に朝鮮出兵を命じた理由
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小早川隆景と権慄-幸州山城の戦いのあらすじとネタバレ」です。
このページは「小早川隆景と権慄-幸州山城の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■豊臣秀吉が黒田官兵衛に朝鮮出兵を命じた理由
日本軍は快進撃で李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)を占領したが、明軍(中国軍)が冊封国(属国)・李氏朝鮮の救済に乗り出すと、戦況は膠着状態に陥った。
そのようななか、漢城に駐留する日本軍は、兵糧不足と厳しい寒さに苦しみ、大勢の餓死者を出し、疫病が流行り、漢城の維持が困難なっていた。
文禄2年(1593年)2月27日、日本軍の総大将・宇喜多秀家は漢城で軍議を開き、豊臣秀吉の渡航中止の要請を決議する。さらに、朝鮮半島南岸にある釜山(プサン)まで撤退し、事後報告する形で、豊臣秀吉に撤退の許可を求めることにした。
一方、名護屋城に居る豊臣秀吉は、文禄2年(1593年)2月中旬に「平壌城が明軍に奪われた」という知らせが届と、これに激怒して「朝鮮半島へ渡って、ワシが全軍の指揮を執る」と言い出した。しかし、徳川家康などに止められて豊臣秀吉の渡航は延期となった。
豊臣秀吉は、明国(中国軍)の登場によって戦略的な変更を余儀なくされ、徳川家康・前田利家・上杉景勝・蒲生氏郷と言った日本に残っている武将を集め、軍議を開くが、なかなか良い案が出ない。
豊臣秀吉は「我は小国の日本に生まれ、勢力不足なので、速やかに明を切り取ることが出来ない。残念でならない」と涙ながらに悔しがったという。
宇喜多秀家は日本軍の総大将だが、宇喜多秀家は名目上の総大将であり、実質的には日本軍・4番隊の長に過ぎず、2番隊の隊長・加藤清正や3番隊の隊長・黒田長政などの大将と同格で、日本軍の指揮を執っているのは名護屋城に居る豊臣秀吉だった。
宇喜多秀家は三軍の指揮を執れるほどの器では無く、豊臣秀吉が朝鮮半島に渡れない以上は、誰かを派遣して日本軍を立て直さなくてはならなかった。しかし、いくら話し合っても結論はでない。
そのとき、隣の部屋に控えていた黒田官兵衛が「諸将は武功を争って、統制がとれいない。このままでは明国はおろか李氏朝鮮も征服できないでしょう。日本軍の規律をただし、異国の民を治める事が出来るのは、徳川殿か前田殿、もしくは、この黒田官兵衛だけでしょう」と大声で叫んだ。
(注釈:黒田官兵衛は豊臣秀吉の命で文禄元年5月にに朝鮮半島へ渡っていたが、病気の療養を理由に豊臣秀吉の許可を得て文禄元年8月に帰国していた。)
豊臣秀吉は隣の部屋から聞こえてきた黒田官兵衛の言葉で、黒田官兵衛の存在を思い出し、黒田官兵衛に「浅野長政と一緒に朝鮮へ渡り、ワシの意向を誤りなく伝えよ」と命じた。
こうして、黒田如水は文禄2年(1593年)2月に再び朝鮮半島へ渡り、朝鮮半島に駐留している日本軍に豊臣秀吉の意向を伝えることになる。
黒田官兵衛が2度目に朝鮮半島に渡るのは文禄2年(1593年)2月、黒田官兵衛が48歳、黒田長政が26歳の事であった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「日本軍が明軍と和睦して黒田長政が漢城から撤退するあらすじとネタバレ」へ続く。