林太郎右衛門(林直利)の生涯
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ黒田24騎編「林太郎右衛門(林直利)の生涯のあらすじとネタバレ」です。
■林太郎右衛門(林直利)のwiki
林太郎右衛門(林直利)は、黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人で、加藤清正の逸話「加藤清正の虎退治(虎狩り)」や「名古屋城の清正石」のモデルとなった武将である。
■林太郎右衛門(林直利)のwiki
林太郎右衛門は本名「林直利」で、幼名を「林吉六」と言い、後に「林太郎右衛門」と名乗り、晩年は「林掃部」と名乗った。
林太郎右衛門は永禄12年(1569年)に、父・松本主膳正の次男として信濃国軽井沢(長野県軽井沢町)で生まれた。
松本一族は信濃国に領土を持つ豪族で、武田信玄で有名な甲斐の武田家に属していたが、武田勝頼が「長篠合戦」で織田信長・徳川家康に敗退して以降は衰退の一途を辿った。
このため、父・松本主膳正は妻方の林家を頼り、播磨(兵庫県)へと移り住んだ。そして、林太郎右衛門は次男だったので、母方の舅・林大学(林大学助)の養子となった。
その後、林太郎右衛門は後に黒田家に仕え、「岸和田の戦い」で初陣を果たして以降、所々で手柄を立てた。
■林太郎右衛門の虎退治(虎狩り)
第1次朝鮮出兵(文禄の役)が休戦になり、大半の日本軍は帰国するが、一部の武将は朝鮮半島南岸に築いた倭城(日本式の城)の警備に残った。
黒田長政は倭城「機張城」の普請を担当しており、そのまま倭城「機張城」の警備のため、朝鮮半島に残った。
文禄3年(1594年)2月13日、黒田長政は休戦状態で戦争が無いため、家臣を率いて山に入り、虎退治(虎狩り)を行った。
(注釈:黒田長政が朝鮮虎を退治した虎退治のあらすじとネタバレは、「黒田長政と加藤清正の虎退治(虎狩り)」をご覧ください。)
黒田長政や菅六之助は虎を討取ったので機張城へ戻ったが、林太郎右衛門は虎を撃ち取っていなかったので、これを悔しがり、1人で山に残り、朝鮮虎が出てくるのを待った。
しばらくすると、林太郎右衛門の前に朝鮮の虎が現れ、林太郎右衛門に襲いかかった。林太郎右衛門は槍を虎の喉に突き刺したが、槍をかみ砕いたので、林太郎右衛門はすかさず槍を捨て、刀を抜いて虎を斬り殺し、見事に朝鮮の虎を退治した。
朝鮮半島での虎退治(虎狩り)は、林太郎右衛門を代表する武勇伝だが、この虎退治が江戸時代に加藤清正の武勇伝として広まり、現在にも「加藤清正の虎退治(虎狩り)」として伝わる。
■林太郎右衛門が幼女を連れ帰る
朝鮮出兵のとき、林太郎右衛門は戦争孤児となった幼女を見つけた。林太郎右衛門が幼女に声をかけると、幼女はしきりに命乞いをした。
林太郎右衛門は家族の元に届けてやろうと思い、家族について訪ねると、幼女は「親族のほとんどは死んだ。生きていても、どこかに逃げているので、居場所は分からない」と答えた。
これを聞いた林太郎右衛門は、かわいそうに思い、幼女を陣に連れ帰って面倒をみることにした。
やがて、豊臣秀吉の死によって朝鮮出兵は終結へと向かい、林太郎右衛門は幼女を日本に連れ帰り、下婢(召使い)とした。この幼女は林太郎右衛門の死後、尼となり、妙清尼と名乗った。
■名古屋城の清正石のモデル
慶長15年(1610年)に行われた名古屋城の天下普請で、黒田長政が石垣普請を担当した。林太郎右衛門は石垣工事を担当し、名古屋城で最も大き石「清正石」を運んだ。
しかし、なぜか林太郎右衛門が石を運んだエピソードは、加藤清正の武勇伝として後世に伝わり、林掃部が運んだ名古屋城で最大の石は「清正石」と呼ばれるようになった。
■林太郎右衛門のその後
林太郎右衛門は関ヶ原の戦いでも活躍し、筑前入国後は3000石を賜り、寛永6年(1629年)11月末日に死んだ。林太郎右衛門は遺言により、自分の墓を朝鮮形式にした。
その他、黒田家の家臣の生涯については「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。