もくそ城(晋州城)の戦い-黒田長政と加藤清正
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「もくそ城(晋州城)の戦い-黒田長政と加藤清正のあらすじとネタバレ」です。
このページは「日本軍が明軍と休戦して黒田長政が漢城から撤退」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■第1次・もくそ城(晋州城)の戦い
朝鮮半島南部の西側に朝鮮八道の白国(慶尚道)という地方があり、白国(慶尚道)には「もくそ城(晋州城)」という城があった。もくそ城(晋州城)は、平壌城と並び、李氏朝鮮で1、2を争う堅城であった。
日本軍は、白国(慶尚道)にある釜山から朝鮮半島に上陸し、1ヶ月余りで首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)を占領したが、李氏朝鮮軍は各地で義兵を募り、各地で日本軍に抵抗を続けていた。
白国(慶尚道)の南西部に反日活動の激しい地域があり、日本軍は「もくそ城(晋州城)」を反日活動の拠点としてみていた。
そこで、加藤光泰・細川忠興・木村重茲・長谷川秀一・小野木重勝・牧野兵部大輔(たぶん牧野利貞)・糟屋内膳正(たぶん糟屋武則)の7将が相談し、もくそ城(晋州城)を攻めることにした。
文禄元年(1592年)10月4日、細川忠興ら7将が2万の軍勢を率いて、牧使(もくそ)の金時敏(キム・シミン)が3800の兵で守る「もくそ城(晋州城)」を攻めた(第1次・晋州城の戦い)。
細川忠興ら7将らは、敵は小勢だと思い、安易に攻め寄せたが、牧使の金時敏は良将だったため、良く防ぎ戦い、日本軍を寄せ付けなかった。
細川忠興ら7将は、いずれも同格の武将だったので、互いに命令を聞かず、先を競って攻め入ったため、疲れても交代する兵が居らず、10日目で「もくそ城(晋州城)」攻めを諦め、昌原城へと逃げ帰った。
このとき、晋州城の城主を務めた李氏朝鮮の金時敏(キム・シミン)が「牧使(もくそ)」という役職だったため、日本軍は牧使・金時敏の武勇に敬意を表し、晋州城を「もくそ城」と呼ぶようになった。
(注釈:もくそ城は、漢字で「牧使城」「木曽城」と書く場合もある。)
もくそ城(晋州城)での敗戦を聞いた豊臣秀吉は、名護屋に駐留する兵を朝鮮半島へ派遣しようと思い、徳川家康・前田利家と協議したが、新手の派遣は難しかった。京都に警護の兵は大勢居たが、これは天下の守りなので、兵を割くことは出来なかった。
豊臣秀吉は朝鮮半島に派遣する兵が居らず、「我、小国の日本に生まれたため、軍勢が不足し、大明(中国)を速やかに切り取ることが出来ない。残念極まりない」と嘆いて泣いたと伝わる。
さて、牧使・金時敏はもくそ城(晋州城)を良く守り、日本軍を追い返したが、日本兵に鉄砲で撃たれて負傷して、そのまま死んだ。その後、徐礼元という者が金時敏の後任として牧使(もくそ)に着任した。
その後、日本軍は李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)から平壌城まで占領したが、文禄2年(1593年)1月に明(中国)の大将・李如松は数万の軍勢を率いて李氏朝鮮の救済に乗り出し、小西行長から平壌城を奪い返した。
明軍はさらに日本軍の漢城を目指したが、日本軍は碧蹄館という場所で明軍(中国軍)で決戦に及び、明軍を撃退した。
その後、明軍は日本軍を恐れて平壌城に引き籠もって守りを固めたので、日本軍も明軍を手強く思い、平壌城を攻める事が出来ず、戦線は膠着した。
そのようななか、日本軍は龍山に兵糧を貯蔵していたのだが、李氏朝鮮軍が文禄2年(1593年)3月13日に龍山にある米倉を焼き払うと、日本軍は急激な食糧不足に陥り、漢城を維持する事が難しくなった。
日本軍は飢えと寒さに苦しみ、大勢の死人を出すようになり、漢城は悲惨な有様だったという。
そこへ、明(中国)の朝鮮担当者・石司馬が沈惟敬(しん・いけい)を派遣し、小西行長に講和交渉を持ちかけてきたので、石田三成は講和交渉に応じて休戦を結び、釜山まで撤退する事になった。
■第2次・もくそ城(晋州城)の戦い
そのようななか、文禄2年(1593年)3月、豊臣秀吉は、日本軍が漢城から撤退することを認める一方で、「もくそ城(晋州城)を攻め落とさず、このままにしておけば、日本の武略の恥になる。大明(中国)と和議が整えば、漢城の日本軍は残らず引き払い、釜山の周辺の要害に引きこもり、休息した後、全軍で、もくそ城を攻め落とし、牧使(もくそ)の首を取り、その上で和議を結ぶべし。軍議のことは黒官兵衛・浅野長政に相談するべし」と命じたのである。
もくそ城(晋州城)攻めの命令は、「攻め損ないの城にて、1人漏らさず、ことごとく討ち取ること」という極めて厳しいものであった。
(注釈:第1次晋州城の戦いで晋州城を守り抜いた城主・金時敏は、第1次晋州城の戦いで死んだのだが、日本はそのことを知らないとされる)
当初、豊臣秀吉は、前田利家ら東日本軍を朝鮮半島に派遣して、もくそ城(晋州城)を攻める計画を立てていた。
しかし、漢城に駐留していた日本軍が明軍(中国軍)と休戦して南下してくる事になったため、前田利家ら東日本軍の派遣は中止となり、伊達政宗・上杉景勝らを朝鮮半島に派遣するに留まった。
こおとき、日本軍と明軍(中国軍)は休戦に入っていたが、明軍は日本との和議を結ぶことを優先させ、日本軍のもくそ城(晋州城)攻めを黙認した。
朝鮮半島南部は日本に割譲するという和議の条件が出ていたこともあり、もくそ城(晋州城)攻めは一揆の鎮圧程度に考えられていたという説もある。
文禄2年(1593年)6月、宇喜多秀家が率いる4万2000の軍勢が、もくそ城(晋州城)へと進軍した。黒田長政は先手を勤めた。
このとき、軍師・黒田如水(黒田官兵衛)も325人の手勢を連れて従軍し、伊達政宗も1258人を連れて従軍している。
一方、李氏朝鮮は、もくそ城(晋州城)の対応に意見が割れていた。もくそ城(晋州城)は、白国(慶尚道)の最後の砦であり、赤国(全羅道=朝鮮半島南部の左側)への侵攻を防ぐための要所であった。
しかし、李氏朝鮮は籠城派と非戦派に別れて意見が対立して統制が取れず、もくそ城(晋州城)に集まった兵力は7000であった。
李氏朝鮮は明軍(中国軍)に援軍を要請したが、明軍は日本と講和交渉を優先して、李氏朝鮮の援軍要請を無視し、援軍を出さなかった。
さて、第1次晋州城の戦いで日本軍を追い返した晋州城の城主・金時敏は、第1次晋州城の戦いで鉄砲で撃たれて死んだ。
その後、徐礼元が金時敏の後任として牧使(もくそ)に就任しており、今回は徐礼元が7000の軍勢で、もくそ城(晋州城)を守ることになった。
文禄2年(1593年)6月21日、喜多秀家が率いる4万2000の軍勢が晋州城を包囲する。宇喜多秀家は降服を勧告したが、もくそ城(晋州城)は降伏勧告に応じず、戦争の火ぶたは切って落とされた。
しかし、日本軍はあの手この手で攻めてたが、もくそ城(晋州城)の徐礼元は良く防ぎ戦ったので、日本軍の被害は大きく、日本軍は攻めあぐねた。日本軍は毎日、数百人単位の死傷者を出したという。
そのようななか、虎の攻口で先手を勤めていた黒田長政と加藤清正は、出櫓の石垣の隅石が少しぐらついているのを見つけたので、「亀甲車」という兵器を考案し、亀甲車で石垣に近づき、石垣を壊す作戦を思いついた。
亀甲車とは、城壁に近づくための車で、屋根が亀の甲羅のように傾斜が付いているため、上から石を落とされても潰れず、屋根を牛の生皮で覆っているため、火矢で攻撃されても燃えないようになっていた。さらに、後ろには紐が付いており、退却するときは紐を引けば、素早く退却する事が出来た。
亀甲車を開発した人物は後藤又官兵衛や飯田直景とされているが、実際は軍師・黒田如水(黒田如水)が古来の兵法書「孫子」に登場する「ふんうん車」を参考にして、亀甲車を作ったとも伝わる。
亀甲車のような兵器は、平地の多い中国では古来より使用されていたが、山城の多い日本では、亀甲車のような兵器が使用されることは無く、書物に登場するのみであった。日本人が亀甲車のような兵器を使用したのは、もくそ城(晋州城)攻めが初めてである。
文禄2年(1593年)6月29日、黒田長政と加藤清正は、亀甲車を使ってもくそ城(晋州城)を攻め落とす事を約束した。
そして、黒田長政側は、後藤又兵衛・二宮馬助・楢原午之助・石松羽左衛門・今村市左衛門・吉田六郎太夫・是安甚太夫などが亀甲車に入り、石垣へと近づいた。
一方、加藤清正側は、飯田直景・森本一久らが亀甲車に乗り込んで、石垣へと近づいた。
そして、後藤又兵衛らは亀甲車で城壁に近づき、城壁の角の石を何個か抜き取り、角の石を壊せば、城壁が崩れ落ちるようにした。
黒田長政と加藤清正の2人は、事前に「同時に攻め入ろう」と約束していたので、双方から使者を送って攻め入る合図を示し合わす手はずになっていた。
黒田長政も加藤清正も城壁を崩す準備が出来たため、使者を送り、中間地点で双方の使者が準備完了を報告し合った。
そして、戻ってきた使者が「石垣を崩せ」と合図を出したため、後藤又兵衛らは角石を抜いて城壁を崩すと、城櫓が崩れ落ち、城内は大いに混乱した。
このとき、黒田長政も加藤清正も同時に城壁を崩して城内に攻め入る約束だったが、黒田側の使者の方が5段だけ距離が遠かったため、黒田側は城壁を崩すタイミングが少し遅れてしまった。
さて、城壁が崩れると、黒田長政も加藤清正も、先を争って崩れた城壁から、もくそ城(晋州城)へと雪崩れ込んだ。
黒田長政の家臣には1番乗りを心がける者が多く、後藤又兵衛・後藤半内・堀久七・竹井次郎兵衛ら10人が1番に進んだ。
実際には後藤半内・堀久七・竹井次郎兵衛の3人のうち、誰が1番にもくそ城(晋州城)へ乗り込んだかは分からないが、堀久七の物指は三間一尺(5.7メートル)ある浅葱色(濃い青色)の竿に朱の餅が付いており、城外に居る奉行衆にも城壁越しに朱の餅がよく見えたため、堀久七が一番乗りと記録された。
さて、黒田長政・加藤清正の軍勢が、もくそ城(晋州城)内へ攻め入った後、日本軍が晋州城内に雪崩れ込むと、李氏朝鮮で有数の堅城と言われた晋州城も、その日のうちに落城した。
城兵の多くは討ち取られたが、高いところから落ちて死ぬ者や、もくそ城(晋州城)の前を流れる大河に入って死ぬ者も多かった。
豊臣秀吉が「1人も漏らさずに討ち取れ」と命じていたため、もくそ城(晋州城)の人間はことごとく討ち取られ、敵味方を合わせて6万人の死者が出た。日本軍は牛馬まで残らず殺し、もくそ城(晋州城)で死を免れた者は数人だけであったという。
このとき、もくそ城(晋州城)内に居た朝鮮人は「この部屋に入った者は助ける」と言われたため、部屋に入ると、日本軍は部屋に火を付けて朝鮮人を焼き殺したという伝承が残っている。
さて、もくそ城(晋州城)を占領したあと、諸将が功績を話し合った。このとき、黒田長政が「大将の先駆けは、私でなければ、誰だと言うのか?」と言って名乗り出ると、先手争いをしていた加藤清正も「大将の先手は貴殿なり」と認めた。
日本軍がもくそ城(晋州城)を攻め落としたのは文禄2年(1593年)6月、黒田官兵衛が48歳、黒田長政が26歳の事であった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「岡本権之丞と徐礼元-牧使城(晋州城)の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。