小西行長の欺瞞外交と第2次朝鮮出兵(慶長の役)

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小西行長の欺瞞外交と第2次朝鮮出兵(慶長の役)の開始のあらすじとネタバレ」です。

このページは「秀次事件-豊臣秀次は殺生関白」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■朝鮮出兵の欺瞞外交
文禄元年4月に朝鮮半島の釜山に上陸した日本軍は、破竹の勢いで北上し、文禄元年5月に李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)と平壌城を占領した。

ようやく、明(中国)は冊封国(属国)・李氏朝鮮の救済に乗り出し、大将・李如松を朝鮮半島へと派遣したが、大将・李如松は、文禄2年(1593年)1月、「碧蹄館の戦い」で大敗して戦意を喪失し、大軍で開場城に引きこもった。

一方、漢城(ハンソン)を拠点とする日本軍は、李如松が大軍で守りを固めているため、攻めるに攻められず、戦線は膠着した。

そのようななか、明(中国)の朝鮮担当者・石司馬は、「李如松が日本軍を攻めないのは、日本軍が手強いからである」と考え、沈惟敬(しん・いけい)を和睦の使者として漢城へ派遣し、小西行長と講和交渉を再開させた。

日本軍は文禄2年(1593年)3月13日に龍山にある米倉を焼かれて以降、急激な兵糧不足に陥り、餓死者が大勢出て、漢城を維持することも難しい状態になっていたため、渡りに船と、沈惟敬(しん・いけい)の和睦交渉に応じた。

名護屋城に居る豊臣秀吉は李氏朝鮮を従えて明国へ攻め入る方針だったが、「大明(中国)が日本に降伏する」と報告を受けたため、大いに喜び、和睦を許可した。

こうして、石田三成・小西行長と李如松・宋応昌らによる、嘘と偽りに満ちた欺瞞外交が始まっていくのである。

その後、明軍の李如松と宋応昌(そう・おうしょう)は、宋応昌の部下である謝用梓(しゃ・ようし)と徐一貫(じょ・いっかん)の2人を、「皇帝の勅使」として豊臣秀吉の元に派遣した。

文禄2年(1593年)5月、偽勅使の謝用梓と徐一貫の2人と対面した豊臣秀吉は、7条の条件を提示した。

1・明の皇女を天皇の妃とすること。
1・勘合貿易を復活させること。
1・日本と明の両国は、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと
1・朝鮮八道のうち四道を李氏朝鮮に返還すること。
1・朝鮮王子および家老の1両名を日本に人質として差し出すこと
1・捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬に返還すること。
1・朝鮮の重臣は後世、日本に背かないことを誓約すること。

(注釈:豊臣秀吉は欺瞞外交で騙されており、明の偽勅使・謝用梓と徐一貫を降伏の勅使と思っている。豊臣秀吉は戦勝国として対応しているので、7条の条件も戦勝国として出した条件である。)

その後、偽勅使の謝用梓と徐一貫の2人は本国(中国)に報告するため、朝鮮半島に戻り、小西行長は文学の知識に秀でた家臣・内藤如安を和平の使者として明(中国)へ派遣した(注釈:漢文の知識があるば、漢文で中国人と筆談できた)。

このとき、小西行長は「小西」とうい姓を異国でも輝かすため、内藤如安に「小西」姓を与え、明(中国)へ派遣した。このため、中国の資料では、内藤如安の事が「小西飛騨守如安(小西如安)」と記されている。

さて、小西行長は豊臣秀吉に「明(中国)が日本に降伏した」と報告していたが、沈惟敬(しんいけい)も明に「日本が明に降伏した」と報告していた(欺瞞外交)。

このため、文禄2年(1593年)8月、内藤如安(小西如安)は沈惟敬と供に明への首都・北京と向かったが、明国は「日本が降伏した」と聞いていたので、和平交渉に来た小西如安(小西如安)を首都・北京に入ることを禁止し、遼陽に留めおいた。

文禄3年(1594年)1月、沈惟敬は、日本軍が朝鮮半島南岸に築いた倭城・熊川城を訪れ、明と講和交渉にあたる小西行長と話し合う。

このとき、沈惟敬が小西行長に「関白降表」を作ることを勧め、小西行長は「関白降表」を捏造する。関白降表とは、豊臣秀吉が明(中国)に降伏を願い出る書面である。

そして、沈惟敬は「関白降表」を持って明の首都・北京に戻ると、文禄3年12月になって、ようやく、内藤如安(小西如安)は北京入りを許された。

一方、名護屋城に居る豊臣秀吉は文禄4年(1595年)1月、内藤如安(小西如安)から何の連絡も無く、明から降伏の正使が来ないことに怒り、関白・豊臣秀次を総大将とする大軍を朝鮮半島へ出兵する計画を発表した。

他方、内藤如安(小西如安)から「関白降表」を受け取った明(中国)は文禄4年1月、正使・李宋城(李宋誠)の派遣を決定した(注釈:李宋城は、城の名前ではなく、人の名前です)。

その後、内藤如安(小西如安)からの連絡があったため、豊臣秀吉は関白・豊臣秀次の朝鮮出兵計画を中止した。

文禄4年(1595年)4月、明(中国)の正使・李宋城(李宋誠)は、沈惟敬を朝鮮半島の釜山(プサン)へと派遣して、小西行長と講和交渉を行わせた。この交渉で、豊臣秀吉が提示した7ヶ条は大きく後退する。

日本に割譲されることになってた朝鮮八道のうち四道(朝鮮半島の南半分)は、豊臣秀吉が朝鮮王子を大名に取り立て、豊臣秀吉が大名となった朝鮮王子に割譲された四道(朝鮮半島の南半分)を与える、という内容に変更された。

文禄4年(1595年)10月に明の副使・楊方享(ようほうこう)が釜山へ入り、文禄4年11月には明の正使・李宋城が釜山の日本陣営に入った。

明国は、「関白降表」(小西行長が捏造した豊臣秀吉の降伏文)を受け取り、心から帰順する豊臣秀吉に「順化王」の称号を与えて日本王に封じるため、正使・李宋城を派遣した。

つまり、正使・李宋城は、豊臣秀吉に詫び言を述べる降伏の正使ではなく、日本を明の冊封国(属国)に認めるための冊封使だったのである。

このため、正使・李宋城は、釜山の日本陣営で欺瞞外交の実態を知り、講和交渉の状態がこれまで聞いていた話と全く異なる事に驚いた。

そして、正使・李宋城は「豊臣秀吉は冊封など望んでいない。おそらく、豊臣秀吉は激怒して、使者を殺すだろう」という噂を聞き、殺されることを恐れて、文禄5年4月に釜山の日本陣営から逃げ出した。

このため、正使・李宋城の逃走に困った明の使節団は、副使の楊方享(ようほうこう)を正使に格上げし、日本へ派遣していた沈惟敬(しんいけい)を副使に仕立て上げ、文禄4年8月に堺(大阪)へ入った。

(注釈:沈惟敬も日本行きを嫌がったのだが、半ば無理矢理、先に日本へ渡らせていた。)

李氏朝鮮も正使・黄慎と副使・朴弘長とする使節団を日本へ派遣した。李氏朝鮮は終始、和平に反対しており、明に和平交渉の打ち切りを求めたが、明に無視され続けた。

■豊臣秀吉が明の使節団と対面
豊臣秀吉は文禄5年(1596年)閏8月に京都の伏見城で明の使節団に接見する予定だったが、文禄5年(1596年)閏7月13日に京都・伏見でマグニチュード7の大地震が発生したため、使節団との接見を延期した(慶長伏見の大地震の発生)。

このため、豊臣秀吉は文禄5年(1596年)9月1日に大阪城で明の正使・楊方享と副使・沈惟敬に対面した。この対面で、正使・楊方享は豊臣秀吉に国書・金印・冠服を渡した。

(注釈:豊臣秀吉は明の正使と対面したとき、僧・西笑承兌に明の国書を読ませ、それを聞いた豊臣秀吉が激怒して国書を破り捨てた、というエピソードは後世の創作である。)

なお、李氏朝鮮の正使・黄慎と副使・朴弘長も堺を訪れていたが、豊臣秀吉は朝鮮王子が自ら来なかったことに激怒し、李氏朝鮮の使節団とは対面しなかった。

小西行長は百方弁を尽くしたが、豊臣秀吉の怒りは収まらず、豊臣秀吉は最後まで李氏朝鮮の正使・黄慎と副使・朴弘長とは対面しなかった。

また、明の正使・楊方享は、李氏朝鮮の正使・黄慎に、本国・李氏朝鮮に日本での状況を知らせることを禁じた。

文禄5年(1596年)9月2日、豊臣秀吉は大阪城で贅沢を尽くした宴席を設け、明の正使・楊方享と副使・沈惟敬を接待した。

その後、正使・楊方享らが旅館に戻ると、豊臣秀吉は長老と呼ばれる権威のある僧・西笑承兌ら数人を派遣して、明の使節団を接待接待させ、正使・楊方享に「望みがあれば、何でも申すように」と告げた。

明の正使・楊方享は豊臣秀吉の言葉を聞いて大いに安心し、「日本軍が朝鮮半島に作った倭城を全部壊し、日本軍を全て日本に撤退させ、李氏朝鮮を許せ」という手紙を書いて僧・西笑承兌に渡した。

僧・西笑承兌は、この手紙を豊臣秀吉に手紙を届けると、豊臣秀吉は僧・西笑承兌に手紙を読ませた。

ここで、豊臣秀吉は、豊臣秀吉が出した講和条件7ヶ条が一切反映されていないことを知り、「明から日本王に任じられなくても、我は日本の王なり」と烈火のごとく怒ったという。

激怒した豊臣秀吉は、和平交渉に当っていた小西行長を処刑しようとしたが、石田三成らが仲裁にはいったため、小西行長は処刑を免れた。

このとき、小西行長は豊臣秀吉に「明との和平交渉は順調だったのですが、李氏朝鮮が邪魔をしたのです」と弁明したとも伝わる。

ともかく、最終的に豊臣秀吉の怒りは、李氏朝鮮が王子を派遣せずに正使・黄慎を派遣したことに向いた。

豊臣秀吉は小西行長に命じて、李氏朝鮮王子の派遣するように求めさせたが、李氏朝鮮はこれに応じないため、和平交渉は決裂し、豊臣秀吉は第2次朝鮮出兵(慶長の役)を発動するのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小西行長が加藤清正を暗殺のあらすじとネタバレ」へ続く。

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