小西行長が加藤清正を暗殺

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「小西行長が加藤清正を暗殺するあらすじとネタバレ」です。

このページは「小西行長の欺瞞外交と第2次朝鮮出兵(慶長の役)のあらすじとネタバレ」をご覧ください。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■小西行長が加藤清正を暗殺
文禄5年(1596年)、李氏朝鮮は日本に黄慎を正使とする使節団を送ったが、豊臣秀吉は朝鮮王子が自ら日本に来ないことに激怒し、文禄5年(1596年)9月に朝鮮半島への再出兵を決定する。

文禄5年(1596年)10月27日、朝廷は元号を「慶長」と改めた。このため、第2次朝鮮出兵を「慶長の役」と言う。

慶長元年(文禄5年)12月、豊臣秀吉の命を受けた小西行長は、朝鮮半島に渡って沈惟敬に李氏朝鮮王子の派遣を求めた。

一方、加藤清正は第1次朝鮮出兵のとき、李氏朝鮮の大将・権慄の使者・惟政が講和交渉を打診してきたので、権慄と講和交渉を行っていた(注釈:加藤清正と権慄の講和交渉は、小西行長と沈惟敬の講和交渉とは別件です。)

そこで、加藤清正も小西行長に続いて、慶長2年(1597年)1月に朝鮮半島へ渡り、李氏朝鮮の大将・権慄との講和交渉を再開させた。

このとき、先に朝鮮半島に渡っていた小西行長は、加藤清正に欺瞞外交の実態を知られる事を恐れ、李氏朝鮮に加藤清正の渡航情報を教え、李氏朝鮮に加藤清正を殺させようとした。

加藤清正の渡航情報を得た李氏朝鮮は、水軍大将・李舜臣に加藤清正への襲撃を命じたが、水軍大将・李舜臣は政治的に敵対している者の罠を疑い、加藤清正を襲撃しなかった。

このため、加藤清正は無事に朝鮮半島へ渡り、王命を拒否した水軍大将・李舜臣は政敵に責任を追及され失脚した。

一方、豊臣秀吉は慶長2年(1597年)2月、第2次朝鮮出兵の陣立てを発表し、「赤国(全羅道)を残さず、一遍に悉く成敗を申しつけ、青国(忠清道)、その他の儀は成るべく相働くこと」と命じた。

第1次朝鮮出兵の目的は明(中国)を征伐することであったが、第2次朝鮮出兵の目的は朝鮮八道のうち三道(朝鮮半島南部)の制圧であった。

すなわち、第2次朝鮮出兵の目的は、白国(慶尚道)・赤国(全羅道)・青国(忠清道)の3国(三道)を支配することであった。

なお、李氏朝鮮は朝鮮半島を8つの地区に分けて統治した。これを朝鮮八道と言う。日本軍がこの朝鮮八道を色で呼ぶのは、豊臣秀吉が朝鮮の地図を見ても字が読めなかったため、朝鮮半島の地図を屏風に書かせ、朝鮮八道を色分けしたためである。

さて、慶長2年(1597年)3月、小西行長側の柳川調興が沈惟敬と会談する。一方、加藤清正も慶長2年3月に権慄の使者・惟政と会談する。

しかし、慶長2年(1597年)4月、李氏朝鮮は交渉期限が来ても、王子を日本へ送らず、小西行長は沈惟敬との講和交渉を断念する。慶長2年5月、独自ルートで和平交渉を行っていた加藤清正も権慄との講和交渉を断念する。

これを受けて、豊臣秀吉は、小早川秀秋を総大将に、黒田如水(黒田官兵衛)を軍監(軍師)に添えた14万の大軍を朝鮮半島へ投入し、第2次朝鮮出兵(慶長の役)が始まるのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田如水(黒田官兵衛)の第2次朝鮮出兵(慶長の役)のあらすじとネタバレ」へ続く。

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コメント欄

秀吉が朝鮮の地図をみ地図を見て字が読めなかったと書いてありますが、当時の朝鮮の文字は漢字であったはずで、秀吉に読めぬはずはないと思うのですが。

  • 投稿者-
  • Koji Watanabe

■Koji Watanabeさんへ
確かに李氏朝鮮の公用語は漢字ですが、豊臣秀吉は字が読めなかったので挑戦の地図を色分けしたと伝わっています。

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  • 管理人