李舜臣と朝鮮水軍の滅亡
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「李舜臣と朝鮮水軍の滅亡のあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田如水(黒田官兵衛)の第2次朝鮮出兵(慶長の役)のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■李舜臣と朝鮮水軍
李舜臣(イ・スンシン)は怪我のため、32歳になって試験に合格した下官士で、大きな功績は無かったが、幼馴染みに引き上げられて出世した。
そして、第1次朝鮮出兵(文禄の役)のとき、李舜臣(イ・スンシン)は、赤国(全羅道=朝鮮半島南部の左下)の水軍大将となっていた。
一方、白国(慶尚道=朝鮮半島南部の右側)の水軍大将は元均(ウォン・ギュン)という者で、元均(ウォン・ギュン)は幼馴染みのコネで出世した李舜臣を嫌っていた。
文禄元年(1592年)4月、日本軍1番隊・小西行長が白国(慶尚道=朝鮮半島南部の右側)にある釜山から上陸すると、白国の水軍大将・元均は、武器を海に沈め、戦わずして南海県へと逃げた。そして、元均は赤国(全羅道)の李舜臣に援軍を求めた。
こうして、李舜臣(イ・スンシン)と李億祺(イ・オッキ)が赤国(全羅道)の水軍を率いて、白国(慶尚道)海域へ駆けつけ、日本水軍と戦うことになる。
中国の冊封国(属国)として長らく戦の無い平和な時代を迎えていた李氏朝鮮において、海賊退治をしていた李舜臣は、戦い方を知る数少ない大将であった。
李舜臣は武装船「亀甲船」を開発していたとされ、李舜臣は第1次朝鮮出兵(文禄の役)、亀甲船を用いて、日本水軍を数度に渡り撃破し、白国(慶尚道)・赤国(全羅道)・青国(忠清道)の3国の水軍を統括する水軍司令官に出世した。
しかし、李舜臣は、政治的に対立する水軍大将・元均らの虚言や工作により、戦争よりも、政治的な部分で苦労するようになる。
さて、日本軍と明軍が講和交渉を開始すると、第1次朝鮮出兵は休戦に入ったが、講和交渉は小西行長らによる欺瞞外交によるものなので、豊臣秀吉が出した条件が反映されておらず、やがて、講和交渉は破綻する。
李氏朝鮮は日本に使節団を送っていたが、豊臣秀吉は李氏朝鮮王子が自ら日本へ来ない事に激怒し、小西行長に「朝鮮に渡って、李氏朝鮮王子を派遣させろ」と命じた。
こうして、小西行長は慶長元年(1592年)12月に朝鮮半島へ渡り、李氏朝鮮に王子の派遣を求めた。
一方、加藤清正も、小西行長とは別に、独自路線で李氏朝鮮の大将・権慄と和平交渉を展開していたため、慶長2年(1593年)1月に朝鮮半島に渡って大将・権慄との和平交渉を再開する。
このとき、先には朝鮮に渡っていた小西行長は、加藤清正に欺瞞外交の実態を知られる事を恐れ、加藤清正の渡航情報を李氏朝鮮に教えて、李氏朝鮮に加藤清正を殺させることにした。
小西行長から情報を得た李氏朝鮮王は、水軍司令官の李舜臣(イ・スンシン)に加藤清正への襲撃を命じるが、政治的な敵対勢力の罠を警戒していた李舜臣は「敵の罠かもしれない」と言い、王命による攻撃命令を拒否した。
このため、加藤清正は李舜臣から襲撃を受けること無く、無事に朝鮮半島へと渡ることができた。
一方、李舜臣と対立する元均は、こことぞばかりに李舜臣の王命拒否を糾弾した。
その結果、李舜臣は失脚し、元均が李舜臣の後任として、白国(慶尚道)・赤国(全羅道)・青国(忠清道)の3国の水軍を統括する水軍司令官に出世した。
慶長2年(1593年)4月、交渉期限が来ても李氏朝鮮は王子を日本へ派遣せず、小西行長は李氏朝鮮との和平交渉を断念し、豊臣秀吉は第2次朝鮮出兵を開始する。
慶長2年(1593年)7月、3国の水軍司令官に就任した元均(ウォン・ギュン)は、巨済島を拠点にして日本の船を度々、襲ったが、藤堂高虎・脇坂安治らの水軍に反撃され、大敗してしまう(巨済島の海戦)。
そして、元均(ウォン・ギュン)は巨済島の海戦で戦死。その後、藤堂高虎・脇坂安治らは朝鮮の船を焼き払い、朝鮮水軍に壊滅的な被害を与え、海上の安全を確保した。
元均の死後、李舜臣は白国(慶尚道)・赤国(全羅道)・青国(忠清道)の3国の水軍を統括する水軍司令官に返り咲き、残存する水軍を率いて、日本に抵抗するのであった。
■李舜臣の最後
慶長3年(1594年)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、豊臣秀吉の遺言により、豊臣秀吉の死は秘匿したまま、日本軍は朝鮮半島からの撤退を開始した。
慶長3年(1594年)11月、順天城に居る小西行長は、安全に撤退するため、順天城を攻めていた明の大将・劉挺と休戦を結んだ。
慶長3年(1598年)11月9日、順天城からの撤退を明日に控えた小西行長は、船上で宴会を開いた。
しかし、慶長3年(1598年)11月10日、和睦に反対する李氏朝鮮の水軍大将・李舜臣が、明・李氏朝鮮の水軍を率いて順天城沖を封鎖した。
小西行長は李舜臣は「既に劉挺と休戦の約束が成立している」と伝えたが、李舜臣は海上封鎖を解かなかった。
すると、既に巨済島まで撤退していた島津義弘・宗義智・立花宗茂などが、小西行長の窮地を知り、水軍を率いて助けに駆けつけ、露梁海において李舜臣と海戦に及び、李舜臣の水軍を撃破した(露梁海の戦い)。
李舜臣は「露梁海の戦い」で日本水軍に敗れて戦死した。李舜臣は日本軍の鉄砲で撃たれて戦死したと伝わる。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「赤国(全羅道)征伐のあらすじとネタバレ」へ続く。