加藤清正と蔚山城の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「加藤清正と蔚山城の戦いですのあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田長政と稷山の戦い-青国(忠清道)征伐のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■倭城の建設
第2朝鮮出兵で朝鮮半島に渡った日本軍は、赤国(全羅道)と青国(忠清道)の征伐を完了すると、朝鮮半島南部を恒久的に支配するため、南下して海岸付近で倭城の建設に取りかかった。倭城とは、日本式の城の事である。
宇喜多秀家・毛利秀元は釜山浦に倭城・釜山浦城を築いた。釜山浦から北へ8里の所に梁山という場所があり、梁山には黒田長政が倭城・梁山城を築いた。
梁山から西へ数里の所に西生浦という場所があった。そして、西生浦から北へ2日の場所に蔚山という場所があり、蔚山には加藤清正が倭城・蔚山城を築いた。その後、加藤清正は西生浦に倭城を築くため、西生浦へと向かった。
■第1次・蔚山城の戦い
慶長2(1597年)11月、日本軍に朝鮮半島南部を制圧されたことを受け、明の大将ケイカイ(漢字は表記できず)が大軍を率いて朝鮮半島へ入り、慶長2(1597年)11月29日に漢城(ハンソン=現在のソウル)に入った。
大将ケイカイは日本軍が南方で倭城を築いていると知ると、戦意を喪失している李氏朝鮮軍を励まし、軍を起こして、兵器を揃えた。
慶長2(1597年)12月4日、明の大将ケイカイは諸将を集めると、壇に上り、天地を祭り、諸将を労い、旗を立てた。そして、数万の鉄砲を一斉に放った。その儀式は厳重にして軍法に則ったものだと伝わる。
ケイカイは総大将だったため、漢城に留まり、李氏朝鮮の大将・権慄を先鋒に、明の楊鎬と麻貴の両将を大将とする大軍で、白国(慶尚道)にある蔚山城を攻めた。明・李氏朝鮮連合軍の総数は5万を超えていたという。
一方、倭城・蔚山城はもう少しで完成という段階であり、倭城・蔚山城の普請を担当していた加藤清正は、西生浦にある西生浦城を修復を指揮するため、西生浦へ出かけていた。
慶長2(1597年)12月22日、明・李氏朝鮮連合軍が、蔚山城の外で警備をしていた毛利陣営を蹴散らし、蔚山城へと迫る。
慶長2(1597年)12月22日、西生浦へ行っていた加藤清正は、敵軍到来の報告を受け、精鋭を引き連れて、島山と梁山の間を流れる川へ乗り入れ、蔚山城と入ろうとする。
明軍(中国軍)は加藤清正を見つけ、防ぎ戦ったが、加藤清正はこれを突破して、蔚山城へと入った。
蔚山城に籠もる日本軍2万は加藤清正を得て勢いづいた。しかし、蔚山城は完成しておらず、兵糧の準備が整っていなかったため、2万という大軍が裏目となり、直ぐに兵糧不足に陥った。
日本軍は兵糧が底を尽きると、紙を食べ、土壁を煮て食し、牛馬を殺して食べた。元気のある物は城外へ出て、討ち死にした兵士が腰に付けている入り米を取って食べたが、それでも食料は足らなかった。日本軍は飢えと寒さに苦しみ、明に投降する日本人も現れた。
一方、明・李氏朝鮮連合軍は蔚山城を攻め立てたが、蔚山城からの一斉射撃を受け、大きな被害を出し、攻めあぐねていた。
このため、明・李氏朝鮮連合軍は慶長2年(1597年)12月29日、降倭の岡本越後守と田原七左衛門の2人を使者に送り、蔚山城に籠もる加藤清正に降伏を呼びかけた。
(注釈:降倭とは、明に投降した日本人武将の事である。岡本越後守は加藤清正の家臣で、田原七左衛門は宇喜多秀家の家臣とされる。)
さて、加藤清正に時間稼ぎの意図があったかのか、無かったのかは不明だが、加藤清正が明軍と交渉をしている間に、黒田長政ら日本の援軍が蔚山城に現れるのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ朝鮮出兵編「黒田長政と蔚山城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。