黒田長政が栄姫と結婚-直江兼続の直江状

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政が栄姫と結婚-直江兼続の直江状のあらすじとネタバレ」です。

このページは「徳川家康の加賀征伐のあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田如水が中津に帰る
慶長4年(1599年)閏6月、徳川家康は各大名を帰国させたが、黒田如水(黒田官兵衛)と黒田長政は帰国せずに大阪に留まり、徳川家康に気脈を通じた。

慶長4年(1599年)末、徳川家康の家臣・井伊直政が大阪に来て、黒田如水(黒田官兵衛)と会談した。このとき、黒田如水は井伊直政に帰国を願い出る。

井伊直政が黒田如水の頼みを引き受けて徳川家康に暇請いをすると、徳川家康は黒田如水に帰国の許可を出した。

こうして、黒田如水は黒田長政に「家臣の栗山四郎右衛門(栗山善助)・母里太兵衛を残していくので、有事の際には彼らとよく相談し、慎重に行動するように」と言い残し、豊前の中津(大分県中津市)へと帰った(黒田長政は大阪に残る)。

中津に帰国した黒田如水は、「大阪」「備後の鞆」「周防の上関」の3カ所に早舟を待機させ、早舟をリレーさせることで、大阪からの情報を豊前の中津(大分県中津市)へと届けさせた。

このため、大阪の情報は、3日で豊前の中津(大分県中津市)に居る黒田如水の元に届くようになっていた。

■上杉景勝に謀反の疑い
慶長5年(1600年)1月、諸大名が大阪城へ集まり、豊臣秀頼に正月の挨拶を行う。豊臣秀頼への挨拶を終えた諸大名は、徳川家康の元を訪れ、正月の挨拶を行った。これは、豊臣秀頼の次ぎに徳川家康が偉い事を意味していた。

しかし、会津(福島県)の上杉景勝は病気と称して会津に留まり、大阪城に居る豊臣秀頼に使者を送って年頭の祝儀を述べただけだった。

徳川家康は、上杉景勝の使者に「早く帰って上杉景勝に伝えよ。天下の政務で相談があるため、急いで上洛するようにと」と命じて会津(福島県)へと帰した。

慶長5年(1600年)2月、徳川家康の影響力が増すなか、会津(福島県)の上杉景勝が軍師・直江兼続に神指城の建設を命じた。

越後(新潟県)の大名・堀秀治は会津(福島県)の大名・上杉景勝に遺恨があるため、堀秀治の家老・堀直政(堀監物)が徳川家康に「上杉景勝は武具を多く用意し、砦を構え、他国への道を作っている。上杉景勝は病気と称して参勤していないが、会津では鷹狩りをしており、謀反の疑いがある」と報告した。

(注釈:転封となった者は、転封先で年貢を徴収するのが通例であった。堀秀政は越後へ転封となったが、越後から会津へと転封になった上杉景勝が越後で年貢を徴収してから、会津へと移ったため、堀秀政は越後で年貢が徴収できなかった。このため、堀秀政は上杉景勝に遺恨を持った。後に黒田長政も年貢徴収事件を起こし、細川忠興と犬猿の仲になった。詳しくは「黒田長政と細川忠興の対立の理由-年貢持ち逃げ事件」をご覧下さい。)

報告を受けた徳川家康は、家臣・伊奈図書(伊奈昭綱)を会津(福島県)へ派遣して上杉景勝に登城を求めたが、上杉景勝は「豊臣秀吉が生きていたとき、5年間の暇を頂いている」と言い、登城を拒否した。

■直江兼続の直江状
さて、徳川家康は伊奈図書(伊奈昭綱)を会津(福島県)へ派遣する一方で、外交層・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に命じ、上杉景勝に登城を促す手紙を書かせた。

外交層・西笑承兌は慶長5年(1600年)4月1日付けで上杉景勝へ書状を送ると、上杉景勝の軍師・直江兼続は慶長5年(1600年)4月13日付けで西笑承兌に返事の書状を返した。

このとき、直江兼続が西笑承兌がに送った返書が「直江状」とよばれるものであり、直江状には上杉景勝の謀反に関する噂に対する釈明が書かれていた。

通説では、徳川家康は直江状を読んで激怒し、上杉討伐(会津討伐)を決定したとされている。

さて、上杉景勝が登城を拒否したため、徳川家康は諸大名を大阪城に集めて上杉討伐(会津討伐)を評議し、徳川家康自らが会津討伐を行う事を決めた。

すると、肥後(熊本県)の大名・加藤清正は山岡道阿弥を通じて、「会津への出兵は中止してください。内大臣という重職にありながら、遠い国の敵を自ら征伐に行くのは軽々しい。五奉行が上杉景勝と内通していれば、挟み撃ちにされてしまう。隣国の伊達政宗や最上義光に命じれば、上杉景勝は簡単に討てる」と訴えた。

しかし、徳川家康は同心せず、加藤清正に「加藤清正には伏見城を守らせたいが、九州には黒田如水(黒田官兵衛)しか味方が居ない。黒田如水は隠居の身で兵士も少ないから、加藤清正は肥後(熊本県)に帰って、黒田如水と相談して九州を治めて欲しい」と九州の守備を命じた。

加藤清正は会津討伐軍の先陣に加えて欲しいと何度も頼んだが、徳川家康は認めなかったため、諦めて自国の肥後(熊本県)へと帰った。

■黒田長政が栄姫と結婚
慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康が諸大名に上杉討伐(会津討伐)を発表する。

黒田長政は慶長5年(1600年)6月6日に保科正直の娘・栄姫と結婚した。

徳川家康は、政略結婚によって勢力を拡大しており、保科正直の娘・栄姫を養女とし、黒田長政と結婚させた。黒田長政は、蜂須賀正勝の娘・糸姫と結婚していたが、徳川家康の斡旋を受け、蜂須賀正勝の娘と離婚して保科正直の娘・栄姫と結婚したのである。

黒田長政は慶長5年(1600年)6月16日に上杉討伐(会津討伐)へ出発しており、栄姫との結婚は出発直前の事であった。

さて、豊臣秀吉の時代から、諸大名の妻は人質として大阪の各屋敷に留め置かれており、黒田如水の妻・櫛橋光も黒田長政の妻・栄姫も大阪にある天満屋敷に留まっていた。

そこで、上杉討伐(会津討伐)に出陣する黒田長政は、家臣の栗山四郎右衛門(栗山善助)・母里太兵衛・宮崎助太夫の3家老を呼び、「徳川家康が関東へ下向した後、石田三成が乱を起こし、母上や妻を大阪城へ入れて人質にするかもしれない。今、帰国させる事は出来ないので、石田三成が乱を起こせば、母・櫛橋光と妻・栄姫を連れて、なとしても中津へ逃げよ。母と妻を敵に生け捕られるのは、黒田家の恥なり。逃げられないようであれば、2人を切って、お主らも自害してくれ」と命じた。

栗山善助・母里太兵衛は上杉討伐(会津討伐)への従軍を願い出たが、黒田長政は「汝は母上と妻の供をして中津に降り、黒田如水に忠を尽くすべし」と言って上杉討伐への従軍を許さず、天満屋敷に留め置き、櫛橋光と栄姫の護衛を命じたのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「石田三成の挙兵-大谷吉継と衆道のあらすじとネタバレ」へ続く。

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