母里太兵衛と栗山四郎右衛門(栗山善助)が天満屋敷を脱出
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「母里太兵衛と栗山四郎右衛門(栗山善助)が天満屋敷を脱出のあらすじとネタバレ」です。
このページは「石田三成の挙兵-大谷吉継と衆道のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田長政が栗山四郎右衛門(栗山善助)に命ず
豊臣秀吉の時代から、大名は妻子を大阪の屋敷に置く決まりになっており、大名の妻子は事実上の人質であった。
黒田家も例外では無く、黒田如水(黒田官兵衛)の妻・櫛橋光と黒田長政の妻・栄姫も大阪の天満屋敷に住んでいた。
(注釈:黒田長政は蜂須賀正勝の娘と結婚していたが、徳川家康の斡旋により、蜂須賀正勝の娘と離婚し、上杉討伐に向かう直前に保科正直の娘・栄姫と再婚している。)
徳川家康に従って会津討伐(上杉討伐)に参加する黒田長政は、家臣の栗山四郎右衛門(栗山善助)・母里太兵衛・宮崎助太夫の3家老に「徳川家康が関東へ下向した後、石田三成が乱を起こし、母上や妻を大阪城へ入れて人質にするかもしれない。石田三成が乱を起こせば、母・櫛橋光と妻・栄姫を連れて、なんとしても中津へ逃げよ。母と妻を敵に生け捕られるのは、黒田家の恥なり。逃げられないようであれば、2人を切って、お主らも自害してくれ」と命じた。
栗山四郎右衛門(栗山善助)と母里太兵衛は上杉討伐(会津討伐)への従軍を願い出たが、黒田長政は「汝は母上と妻の供をして中津に降り、黒田如水に忠を尽くすべし」と言って上杉討伐への従軍を許さず、天満屋敷に留め置き、母・櫛橋光と妻・栄姫の護衛を命じた。
(注釈:栗山四郎右衛門は、黒田家の家臣を代表する黒田24騎の1人・栗山善助の別名で、栗山善助はこのころ、「栗山四郎右衛門」と名乗っていた。栗山四郎右衛門の生涯は「栗山善助(栗山利安)の生涯」をご覧ください。)
さて、慶長5年(1600年)6月、徳川家康が総勢を率いて会津討伐(上杉討伐)に出発すると、徳川家康側の勢力は伏見城を守る徳川家康の家臣・鳥居元忠だけとなった。
石田三成はその隙を突いて大阪城を占領して挙兵すると、徳川家康討伐の表明に先んじて、城下町に兵を送り、徳川家康に味方する武将の妻子を人質に取ろうとしたのである。
■栗山四郎右衛門(栗山善助)の天満屋敷脱出作戦
さて、大阪にある黒田家の天満屋敷には商人・納屋小左衛門が出入りしていた。納屋小左衛門は元々は黒田家で奉公人をしていた者である。
黒田長政から天満屋敷の留守を命じられた母里太兵衛は、納屋小左衛門と気心が知れていたので、納屋小左衛門に「もしもの時は櫛橋光と栄姫を匿って欲しい」と頼んだ。
納屋小左衛門は快く頼みを引き受け、もしもの時は自宅の奥にある内倉に櫛橋光と栄姫を匿うことにした。さらに、寝室の畳み下の床を剥がして隠し部屋を作り、万が一の時には、櫛橋光と栄姫が隠し部屋へ逃げ込めるようにした。
ある日、栗山四郎右衛門(栗山善助)らは石田三成らの動きを察知したため、手はず通り櫛橋光と栄姫を納屋小左衛門の屋敷へ逃がそうとしたが、既に黒田家の天満屋敷には見張りの番人が着いていた。
そこで、栗山四郎右衛門(栗山善助)と母里太兵衛は相談し、屋敷の裏にある風呂屋の壁の下に穴を開け、闇夜に紛れて抜け出ることにした。
その日の夜、母里太兵衛は商人に扮装し、櫛橋光と栄姫とをそれぞれに俵に詰め、棒で俵を担いで、商人が荷物を運んでいるように装い、風呂屋の壁の穴から抜け出し、川端の草むらを通って納屋小左衛門の屋敷へと逃げ込んだ。
納屋小左衛門は約束通り、櫛橋光と栄姫を内倉に匿い、下人にも櫛橋光と栄姫の事を知らせず、食事の支度も納屋小左衛門夫婦が行った。こうして、櫛橋光と栄姫の2人は納屋小左衛門の内倉で1週間ほど過ごした。
このとき、母里太兵衛は納屋小左衛門の屋敷の近くに住み、納屋小左衛門の屋敷を警護した。
また、黒田長政の家臣・宮崎助太夫も、櫛橋光と栄姫を天満屋敷から連れ出すとき、後から付いて行き、納屋小左衛門の屋敷で櫛橋光と栄姫を警護した。
そのようななか、石田三成の手勢600人が黒田家の天満屋敷を囲い、「黒田長政の母と妻はここに居るか。ここの留守を預かるのは誰だ」と問うた。
天満屋敷で留守をしていた栗山四郎右衛門(栗山善助)は、「黒田長政の母と妻は、いかにも、ここに居る。留守を預かるのは栗山四郎右衛門(栗山善助)だ。毛利輝元に尋ねれば、栗山四郎右衛門(栗山善助)という者が居ることくらいは知っているだろう」と答えた。
これを聞いた石田三成の手勢は「ならば問題は無い」と答え、見張り番に「日夜、油断するな」と命じると、見張り番を残して黒田家の天満屋敷を引き上げた。
その後、大阪城から黒田家の天満屋敷へ使者が来た。使者は栗山四郎右衛門(栗山善助)に「顔見知りを派遣するので、黒田長政の母上と奥方を拝見したい」と頼んだ。
すると、栗山四郎右衛門(栗山善助)は「武士による面吟味(顔確認)は、あるまじきこと。黒田長政は豊臣秀頼様のご奉公として関東へと下向しているのに、今更、何を根拠に疑いをかけるのか」と拒否した。
困った使者は「二心があるとは思っていません。諸大名の皆様の奥方を見せて頂いております。顔を知っている女を派遣するので、物陰からでも構いません。顔を確認させてください」と頼んだ。
栗山四郎右衛門(栗山善助)は以前から「替え玉を使おう」と考えていたので、「遠くの物陰から確認するのなら許可しよう」と言い、面吟味(顔確認)を許可した。
使者は帰って黒田如水の妻・櫛橋光と黒田長政の妻・栄姫の顔を知っている者を探すと、櫛橋光の若い頃の顔を知っているという女と、12歳の時の栄姫を見たことがあるという女が見つかった。
そこで、使者は顔を知っているという女を連れて再び黒田家の天満屋敷を訪れ、栗山四郎右衛門(栗山善助)に面吟味(顔確認)を願い出た。
栗山四郎右衛門(栗山善助)は、部屋の中に蚊帳を張っており、病気と称して櫛橋光と栄姫に似た女を蚊帳の中に入れて置き、1間(約1.8メートル)離れた物陰から、顔しているという女に面吟味(顔確認)をさせた。
すると、面吟味(顔確認)をした女が櫛橋光と栄姫に間違いないと証言したため、使者は大阪城へ帰って報告した。これを聞いた毛利輝元や増田長盛は「良い人質が出来た」と喜んだ。
一方、豊前の中津城に居る黒田如水(黒田官兵衛)は、母里興三兵衛(母里与三兵衛)を派遣し、櫛橋光と栄姫を迎えに行かせたが、天候が悪かったため、到着が遅れた。
ちょうど、このころ、黒田如水(黒田官兵衛)が播磨時代に運送を頼んでいた船頭・梶原太郎左衛門が大阪に来ていた。梶原太郎左衛門は気心が知れていたため、櫛橋光と栄姫の搬送を頼んでいた。
船頭・梶原太郎左衛門は快くこれを引き受け、回船を借りて大阪湾で待っていたが、川で兵士が小舟2艘を用意して検問を張って女を通さなかったので、櫛橋光と栄姫は大阪湾まで出られずに困っていた。
■細川ガラシャの自害
大阪城を占拠した石田三成は、大阪の屋敷に残された妻子を人質に取れば、徳川家康から寝返る大名も出てくるだろうと考え、最初に東軍・細川忠興の正室・細川ガラシャを人質に取ることにした。
そこで、石田三成は、細川忠興に仕えていた事のある比丘尼(びくに=尼僧)を大阪・玉造の細川屋敷へ派遣し、内々に細川ガラシャを大阪城へ入れようとした。
しかし、細川ガラシャは人質になる事を拒否したので、石田三成は内々に人質を取ることを諦め、慶長5年(1600年)7月17日に正式な使者を派遣し、人質を要請した。
すると、大阪・玉造にある細川屋敷の留守を預かる細川忠興の家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は、石田三成の使者に「細川屋敷は大阪城から遠くありません。そのままにしておいてください」と拒否した。
しかし、再三にわたり、石田三成の使者が来て「是非是非、人質を出したまえ。さもなければ、押しかけて人質を取るぞ」と圧力を掛けてきたので、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は「あまりの申しようだ。このうえは切腹して申し開きをする」と言って使者を追い返し、細川家の家臣一同は切腹を覚悟した。
細川ガラシャは夫・細川忠興の異常な愛情と嫉妬心によって外出が禁じられ、細川屋敷で幽閉生活を送っており、細川忠興は徳川家康に属して会津討伐(上杉討伐)へ出陣するとき、正室・細川ガラシャに1人で自害するように命じていた。
そこで、細川ガラシャは家老・小笠原秀清(小笠原少斎)に、「大阪城に入って恥をさらす事はなりません。次ぎに使者がきたら、速やかに自害します。もし、敵が押しかけてくるようなことがあれば、小笠原秀清(小笠原少斎)は奥の間に来て、私を介錯するように」と命じた。
慶長5年(1600年)7月17日の夜、石田三成の兵が細川屋敷を取り囲んだ。細川家の家臣・稲富直家が表門で敵を防ぎ戦ったていたが、稲富直家が石田三成側に寝返った。
これを聞いた家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は、細川ガラシャの元を訪れ、「今が最期にございます」と告げた。
礼拝堂で祈りを捧げていた細川ガラシャは、侍女らを細川屋敷から逃がすと、奥の部屋へ入り、自害の準備を整えると、キリキリと髪を巻き上げた。
家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は部屋の中に入ることをはばかり、部屋の外から「そうではございません」と告げると、細川ガラシャは胸を開いた。
家老・小笠原秀清(小笠原少斎)が「もう少しこちらへ」と告げると、細川ガラシャは襖の前まで移動し、胸を開いた。
すると、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は心得たりとして、持っていた長刀で、襖越しに細川ガラシャの胸を突いて殺した。
こうして細川ガラシャが死ぬと、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は細川ガラシャの死体に着物を掛け、その上から火薬をまいた。
そして、家老・小笠原秀清(小笠原少斎)は細川ガラシャと同室で死ぬ事を遠慮して、別室へ行くと、屋敷中に巻いた火薬に火を付け、他の家臣と共に自害したのであった。
(注釈:細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレは、「実話・細川ガラシャ夫人の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)
■栗山四郎右衛門(栗山善助)が天満屋敷を脱出
慶長5年(1600年)7月17日、細川ガラシャの自害によって細川邸から火の手が上がる。細川邸は大阪城の近くにあったため、この火事は大騒動になった。
このため、川で検問をしていた兵士が船に乗って大阪城の方へと向かい、川で検問をしていた兵士は少なくなった。
栗山四郎右衛門(栗山善助)と母里太兵衛の2人は、この隙を突いて大阪湾まで脱出しようと思い、かねてから用意していた大きな箱に櫛橋光と栄姫を入れ、屋敷裏の川に停めていた小船に乗せた。母里太兵衛も護衛として乗り込み、船を出した。
さて、母里太兵衛は検問に着くと、船から検問所に飛び降り、検問の番人・管右衛門八に「用事で国元へ帰る。船の中が心許ないのであれば、改めたまえ」と通行許可を求めた。
管右衛門八や検問の兵は船の中を確認しようとしたが、柄の長さだけでも2メートル以上ある大槍を持った母里太兵衛が立っているので船に乗り込めない。
検問の兵は船の中を怪しんだが、母里太兵衛が常人とは思えず、その気迫に押されて、「船を改めるには及ばず、通られよ」と通行を許可した。
こうして母里太兵衛は櫛橋光と栄姫を無事に大阪湾に連れ出し、大阪湾で待っていた梶原太郎左衛門の船に乗り換えて播磨(兵庫県)へ逃げた。
そして、櫛橋光と栄姫の2人は播磨で船を下り、右近左衛門の屋敷に泊まった。右近左衛門は板の間を破り、板の下に櫛橋光と栄姫の2人を匿った。
大阪方より「女中を隠した者は重罪とする」という厳しい達しが来ており、度々、確認の役人が来ていたが、右近左衛門は身の危険を顧みず、櫛橋光と栄姫の2人を5~6日も泊めた。
その後、順風が吹き始めたため、櫛橋光と栄姫は船に乗り込み、中津城へと向かった。この船は、梶原太郎左衛門の船とも、中津から迎えに来た船とも伝わる。
母里太兵衛は船に乗り遅れたため、泉州堺まで戻り、船を借りて、櫛橋光と栄姫の船を追いかけ、中津に戻った。栗山四郎右衛門(栗山善助)は陸路で播磨の宝まで船で行き、宝で船に乗って中津へと戻った。
栗山四郎右衛門(栗山善助)と母里太兵衛は、有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛(黒田如水)を無事に助け出しており、今回も櫛橋光と栄姫を無事に天満屋敷から連れ出す事に成功した。
(注釈:栗山四郎右衛門が黒田官兵衛を有岡城から救出したあらすじとネタバレは「栗山善助の小寺官兵衛(黒田官兵衛)奪還作戦のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
さて、栗山四郎右衛門(栗山善助)らが櫛橋光と栄姫を逃がした後、黒田家の天満屋敷には、四宮市兵衛が残っていた。石田三成は櫛橋光と栄姫が逃げたことを知ると、四宮市兵衛を呼び出し、拷問にかけて行き先を聞いた。
四宮市兵衛は「行き先を知っていれば、私も天満屋敷に残っていない」と答え、いくら拷問にかけても行き先を言わないため、最後には許されて天満屋敷へと返された。
ところで、加藤清正も徳川家康の斡旋により、水野忠重の娘・清浄院と結婚しており、清浄院も大阪にある加藤家の屋敷に住んでいた。
加藤清正の正室・清浄院も大阪から逃げ出すことに成功し、中津城へと落ち延びた。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「小山評定と黒田長政と福島正則のあらすじとネタバレ」へ続く。
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