徳川家康の小山評定(小山軍議)と黒田長政と福島正則
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「徳川家康の小山評定(小山軍議)と黒田長政と福島正則のあらすじとネタバレ」です。
このページは「母里太兵衛と栗山四郎右衛門(栗山善助)が天満屋敷を脱出」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■徳川家康と小山評定
慶長5年(1600年)7月2日、会津討伐(上杉討伐)に出た徳川家康が江戸城に入り、以降、会津討伐(上杉討伐)の先発隊が次々と会津(福島県)に向けて出発する。
一方、大阪では、石田三成が大阪城を占拠し、慶長5年(1600年)7月17日に長束正家・増田長盛・前田玄以の奉行3人が「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」を発表して徳川家康の罪を糾弾した。
慶長5年(1600年)7月19日、石田三成の挙兵が江戸に居る徳川家康の元に伝わる。
すると、徳川家康は先発隊の福島正則に手紙を出し、「そこまで進んでご苦労だが、大阪で雑説があるので、手勢は西へ進軍させ、福島正則は私のところ(江戸)へ来て欲しい。詳しいことは黒田長政と徳永寿昌が説明する」と呼び戻した。
その後、福島正則は徳川家康と会談する。福島正則の居城・清洲城は東軍の最西端にあり、西軍との戦いで最前線となるので、徳川家康は福島正則に清洲城へ帰って西軍に備えるように命じた。
こうして、福島正則は徳川家康の命令で会津討伐(上杉討伐)から離れて、居城・清洲城へと戻って西軍との戦争に備えた。
さて、徳川家康は石田三成の挙兵を知ったが、慶長5年7月21日に江戸城を出て、下野国の小山(栃木県小山市)へ入った。
このとき、常陸国(茨城県)の佐竹義宣は、徳川家康に対して態度を表明していなかったため、徳川家康は島田治兵衛(島田重次)を派遣して真意を問いただした。
すると、佐竹義宣は「徳川家康に対して別心は無いが、大阪に人質を置いているため、会津征伐には参加できない。大阪では石田三成が兵を起こし、もうすぐ関ヶ原に攻め下るそうだ」と答えた。
慶長5年(1600年)7月23日には、徳川家康の元にも、石田三成が徳川家康の罪を糾弾した「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」を表明したという話が伝わり、徳川家康は会津討伐(上杉討伐)の中止を決意した。
慶長5年(1600年)7月24日には、徳川家康の元にも「内府ちかひの条々(内府違いの条々)」の写しが届いたとされている。
さて、先発隊の徳川秀忠は下野国の宇都宮(栃木県宇都宮市)まで進んでいたが、石田三成が挙兵したとの知らせを受けると、蒲生藤三郎を宇都宮の守備に残し、小山(栃木県小山市)まで戻った。
そして、先発隊の諸将が小山(栃木県小山市)に集まり、慶長5年7月25日(7月28日説もあり)に軍議が開かれた。この軍議が「小山定評」「小山軍議」と呼ばれている。
徳川家康が小山評定に参加していたかどうかは不明だが、徳川家康の家臣・井伊直政が諸将に「会津討伐(上杉討伐)を中止して上洛する」と通知した。
このとき、徳川家康の家臣・井伊直政や本多忠勝は諸将に向かって「石田三成に同心する者があれば、急いで大阪へ行き、石田三成の陣営に加わるがよい」と告げた。
(このとき、福島正則が率先して「徳川家康の味方する」と宣言し、その他の諸将が福島正則の後に続いたという有名な逸話があるが、福島正則の逸話は創作とされる。)
こうして、小山評定で会津討伐(上杉討伐)の中止が通知され、大阪で挙兵した石田三成を討つ事になり、津討伐軍(上杉討伐軍)がそのまま東軍と呼ばれるようなる。
ただ、小山評定には参加していないが、会津討伐(上杉討伐)に参加していた上田城(長野県上田市)の城主・真田昌幸と、岩村城(岐阜県恵那市岩村町)の城主・田丸直昌の2人は、石田三成が挙兵したという知らせを受けると、東軍から西軍へと転身している。
■細川ガラシャの死
諸大名は大阪の屋敷に妻子を置いており、妻子は人質の役割があった。
そこで、大阪城で挙兵した石田三成は、妻子を人質に取れば、自分に寝返る大名も出てくるだろうと思い、徳川家康に従う大名の妻子を人質に取ろうとした。
しかし、慶長5年(1600年)7月17日、細川忠興の正室・細川ガラシャは人質になる事を拒否して自害したため、石田三成は妻子を人質に取ることを諦め、既に人質に取っていた池田輝政・藤堂高虎らの妻子を解放した。
さて、関東に在住する徳川家康らの元に細川ガラシャの死が届いたのは、小山評定の2日後(慶長5年7月25日)のことであった。
細川ガラシャが自害したという知らせを聞いた東軍の諸将は激しく動揺したたため、徳川家康は諸将に「各々は大阪に人質を置いている。石田三成に味方するのも勝手次第である」と告げた。
しかし、細川忠興が「私の正室は石田三成の人質にされようとしたため、自害に及んだ。何の面目があって石田三成に属そうか。諸将が大阪へ参られても、私は残り、先手を務める」と告げると、動揺していた諸将は細川忠興に賛同し、徳川家康に誓詞を差して忠誠を誓った。
徳川家康は豊臣秀吉の恩顧武将が大阪に味方するのではないかと心配しいたが、豊臣秀吉の恩顧武将の代表格である細川忠興が徳川家康に味方することを宣言したうえ、細川ガラシャの死によって東軍が一致団結したので、徳川家康は大いに喜んだ。
(注釈:細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレは、「実話・細川ガラシャの生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
■徳川家康が黒田長政に相談する
さて、小山(栃木県小山市)での軍議(小山評定)が終わると、黒田長政は西へ向けて進軍を開始する。諸将も順次、関東から西へ向けて進軍を開始する。
そして、黒田長政が武蔵国の厚木(神奈川県厚木市)まで進んだとき、徳川家康の使者・奥平藤兵衛がやってきた。
黒田長政は徳川家康に呼び戻され、徳川家康の元へと戻ると、終夜にわたり相談を受けた。徳川家康の心配事は福島正則であった。
徳川家康が「福島正則は豊臣秀吉に親しかったので、豊臣秀頼を擁立した石田三成に味方するのではないか」と心配していた。
すると、黒田長政は「心配は要りません。福島正則は石田三成と仲が悪いので、石田三成に従うとは思えません。もし、石田三成の調略を受け、福島正則が石田三成に味方しようとすれば、私が説得します」と答えた。
安心した徳川家康は、「西へ進軍するとき、道々の城を借りて宿にするのだが、在陣する要害が無い。福島正則の居城・清洲城(愛知県)は美濃国(岐阜県)に近いし、敵陣に近い。しばらく清洲に留まることになると思うので、清洲城を借りられないだろうか。貴殿の才覚をもって、清洲城を借りて欲しい」と頼んだ。
黒田長政は「任せてください。尾張国(愛知県)に到着しても、居城がなければ、堅固な御座(本陣)はできません。清洲城へ入られるのが当然です。城を明け渡せば、福島正則に異心が無い証明にもなります」と答え、徳川家康の頼みを引き受けた。
徳川家康は黒田長政の答えを聞いて喜び、黒田長政に「梵字の采配」を与えた。
また、翌日、徳川家康は諏訪部惣左衛門を使わし、黒田長政に「美濃(岐阜県)は川が多い。川を渡るのに大きな馬が良い。もし、良い馬がなければ、この馬に乗りたまえ」と言い、秘蔵の黒毛の大きな馬2頭を与えた。
■黒田長政が福島正則を説得
徳川家康の頼み事を引き受けた黒田長政は、福島正則の居城・清洲城(愛知県清須市)に到着すると、福島正則に「徳川家康のために清洲城を明け渡して欲しい」と頼んだ。
しかし、福島正則は「1~2日なら異論は無い。しかし、長期間、城を明け渡せば、家人の妻子は路頭で生活するか、敵に捕まり、辱めを受ける。城は敵を防ぐためだけのものではない。妻子を安全に籠置くためのものである。戦に出る家人の妻子の居所が心許なくては、戦に支障が出る」と拒否した。
すると、黒田長政は「貴殿の言う事はもっともだ。しかし、よく考えたまえ。この度の戦は天下分け目の合戦だ。我々の命はもとより、妻子の生死もかかっている。総大将の徳川家康に居城が無く、野営をすれば、敵の有利となる。敵が勢いに乗じて攻めてくれば、貴殿は城を失い、我々は妻子を殺され、辱めを受ける。窮屈な思いをさせるが、家人の妻子を城外に出し、徳川家康に城を貸して欲しい」と頼んだ。
さらに、黒田長政は「貴殿は豊臣秀吉から恩を受けており、徳川家康は貴殿を疑っている。貴殿が城を明け渡して徳川家康に異心が無いことを示せば、徳川家康も安心する。本来なら、貴殿が進んで徳川家康に城を明け渡すと言うべきなんだぞ」と説得した。
福島正則は黒田長政の説得に屈し、居城の清洲城を徳川家康のために明け渡すことを約束した。さらに、黒田長政の説得により、福島正則は豊臣秀吉から預かっていた兵糧を徳川家康に差し出す事を承諾した。
黒田長政が江戸に居る徳川家康に報告すると、徳川家康は大いに喜び、黒田長政に感謝した。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と福島正則の美濃攻め-竹ヶ鼻城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。
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