黒田長政と福島正則の美濃攻め-竹ヶ鼻城の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と福島正則の美濃攻め-竹ヶ鼻城の戦いのあらすじとネタバレ」です。
このページは「徳川家康の小山評定(小山軍議)と黒田長政と福島正則のあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田長政の美濃攻め
黒田長政の説得により、福島正則が清洲城を徳川家康に明け渡すことが決まると、清洲城に東軍の諸将が集まった。
慶長5年(1600年)8月14日、諸将は清洲城で評議を行った。その結果、諸将は、徳川家康の発向を待って戦を開始することにした。
しかし、徳川家康は東軍の中に居る豊臣派の武将の動向を警戒しており、江戸に留まったまま動こうとしなかった。
このため、清洲城に集まった武将は「徳川家康は我々を捨て石にするつもりか」と激怒し、不満に満ちていた。
このようななか、徳川家康は清洲城に使者・村越直吉を派遣した。使者・村越直吉は、清洲城の諸将に労いの口状を述べた。
清洲城に集まった諸将は「徳川家康のご出馬はいつなのか」と問うと、使者・村越直吉は諸将に「敵味方の証拠を示したまえ。諸将が合戦を始めれば、徳川家康は出馬するだろう」と告げた。
清洲城に集まった諸将が徳川家康に疑われていた事に驚くと、加藤嘉明が「徳川家康がご出馬を引き延ばすのかばかりを不審に思い、我々が先手の働きをしないことは面目無いことである」と意見した。
すると、福島正則が「加藤嘉明の申すとおりだ。我々が先手なので、徳川家康は我々に手柄をあげさせるために遠慮して、発向を遅らせているのだ。至急、岐阜城を攻めようではないか。先陣は私が引き受ける」と、先陣に名乗り出た。
一方、西軍の石田三成は居城・佐和山城を出て、慶長5年(1600年)8月10日に美濃国の大垣城(岐阜県大垣市)へと入ると、全国より諸将が駆けつけ、西軍は12万を超える大軍になっていた。
清洲城の福島正則は会議を開いて、「徳川家康の発向が遅れているのは、我々の油断が原因だ。我々が岐阜城を攻め落とし、敵方に通じていない事を証明しないうちは、徳川家康の発向は無い。早急に岐阜城を攻め落とし、敵方に通じていないことを証明するのだ」と告げた。
諸将は福島正則の意見に賛同し、敵の城を攻め落として徳川家康に二心が無いことを証明して、出来るだけ早く徳川家康に出陣してもらうため、慶長5年8月22日に尾越川(木曽川)を渡って美濃(岐阜県)へ攻め入ることにした。
尾越川(木曽川)を越えて美濃(岐阜県)に攻め入るには、川上と川下の2つのルートがある。川上から攻め入るルートは岐阜城に近く、浅瀬を渡ることができる。一方、川下から攻め入るルートは岐阜城に遠いうえ、船で川を渡らなければならなかった。
福島正則と黒田長政は東軍の先手を勝ち取り、岐阜城に近い川上から美濃へと攻め入ることが決まる。そして、搦手(城の背後から攻撃する部隊)の池田輝政が川下から攻め入ることが決まった。
しかし、井伊直政と本多忠勝が、福島正則に「池田輝政は他国の者なので船の都合が付かない。貴殿は地元なので船が用意できるだろう。貴殿は川下から船で渡り、浅瀬を渡れる川上は池田輝政に譲って欲しい。これは徳川家康の為にもなる」と頼んだ。
しかし、福島正則は「川上は岐阜城に近いので、川上から攻め入れば、敵に早く出会う。私が先手を引き受けたのに、搦手の方が先に戦を始めたのでは、先手を任された我々の恥辱だ」と拒否した。
すると、井伊直政は「もちろん、先手は福島正則だ。軍法を堅く定めて、池田輝政は川を渡っても攻めず、先手の福島正則が戦を始めてから、池田輝政に攻めさせれば良い」と説得した。
こうして、福島正則は井伊直政の説得に屈し、福島正則は川上から渡る池田輝政と議定を結んで、川下から攻め入ることになる。
慶長5年(1600年)8月22日、福島正則・黒田長政・加藤嘉明・生駒親正・本多忠勝など1万8000の軍勢が尾越川(木曽川)の川下で待機する。
川下と川上の双方が合図の狼煙を上げて、同時に尾越川(木曽川)を渡る約束になっており、福島正則・黒田長政などは川下で、川上の狼煙の合図を待っていたが、煙の合図が無いのに、川上の方から鉄砲を撃つ音が聞こえてきた。
池田輝政め、約束を破ったか。福島正則は急いで尾越川(木曽川)を渡ろうとしたが、対岸に敵軍が土塁を築いて大砲を備え付けているため、さらに川下へと迂回して船で尾越川(木曽川)を押し渡った。
■黒田長政と竹ヶ鼻城の戦い
福島正則や黒田長政らは、川下から尾越川(木曽川)を押し渡ると、美濃にある竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市竹鼻町)へと攻め寄せた。
黒田長政は竹ヶ鼻城下の堀の際一面に旗を押し並べて攻め入ろうとすると、竹ヶ鼻城の城内に居る兵は黒田家の旗を目印にして鉄砲で攻撃した。
しかし、黒田長政の旗奉行・毛屋主水は、旗を左から右へと退けて配置し、後ろへ行くほど、旗を高く上げていたので、敵の鉄砲に当る者は少なく、ほとんど被害は出なかった。福島正則はこれを見て、旗奉行・毛屋主水の旗の立て方に感心した。
さて、竹ヶ鼻城を守るのは、毛利掃部(毛利広盛)と浦上五左衛門であった。
福島正則は毛利掃部(毛利広盛)と知り合いだったので、毛利掃部(毛利広盛)の旗を見ると、徳川側に下るように説得した。
すると、竹ヶ鼻城の二の丸を守っていた毛利掃部(毛利広盛)は、福島正則の説得に応じて投降し、二の丸を明け渡した。
竹ヶ鼻城の本丸は浦上五左衛門が守っていた。浦上五左衛門は城を明け渡す様子は無かったため、福島正則は激しく本丸を攻め立てる。
浦上五左衛門は堅固に守っており、直ぐには落ちなかったが、やがて猛攻に耐えかねた浦上五左衛門は竹ヶ鼻城に火を放ち、自害した。こうして、竹ヶ鼻城は落城したのであった。
一方、川上を渡った池田輝政は、待ち構えていた岐阜城主・織田秀信の攻撃を受けた。
岐阜城主・織田秀信は鉄砲で、池田輝政の渡河を阻止しようとしたが、池田輝政が尾越川(木曽川)を押し渡り、織田秀信の軍勢を撃破すると、織田秀信は岐阜城へと逃げ帰って守りを固め、大垣城に居る西軍・石田三成に援軍を求めたのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ関ヶ原の戦い編「黒田長政と岐阜城の戦い-関ヶ原の戦い前哨戦のあらすじとネタバレ」へ続く。