黒田官兵衛(黒田如水)-九州の関ヶ原の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田官兵衛(黒田如水)-九州の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」です。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■徳川家康と誼を通じる
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死んだとき、黒田如水(黒田官兵衛)は豊前の中津(大分県中津市)で療養していたため、豊臣秀吉の死に目には会えず、豊前・中津から豊臣家の行く末を案じた。
豊臣秀吉の死後、黒田如水(黒田官兵衛)は、豊臣政権が五大老・五奉行によって運営されていることを知ると、「天下はいずれ乱れるであろう」と言い、豊臣政権には近づかず、中津から成り行きを見守った。
そして、黒田如水(黒田官兵衛)は、かねてから徳川家康は天下の良将だと思っていたので、慶長3年(1598年)12月に飄然と大阪へ上ると、黒田長政に「徳川家康とよしみを通じろ」と命じた。
このとき、黒田如水(黒田官兵衛)と黒田長政は、未だに態度を明らかにしていなかった加藤清正や福島正則と言った武断派の猛将を徳川家康側に取り込んだ。
さて、豊臣秀吉の死後、これまで内在していた様々な対立が表面化し、「淀派」「北政所派」「武断派」「文治派」など様々な派閥が対立したが、前田利家が仲裁に当たっていたので、武力衝突は避けられていた。
しかし、慶長4年(1599年)閏3月3日に仲裁役をしていた前田利家が死ぬと、黒田長政ら武断派7将が、朝鮮半島の時に讒訴された遺恨から、石田三成を襲撃する事件が勃発する(石田三成襲撃事件)。
石田三成は徳川家康の仲裁によって助かったが、石田三成は仲裁の代償として徳川家康から隠居勧告を受けたため、家督を嫡男・石田重家に譲って隠居し、居城・佐和山城(滋賀県彦根市)に引き籠もった。
慶長4年(1599年)閏6月、徳川家康は各大名に帰国を促し、諸大名は自国へと戻るが、黒田如水(黒田官兵衛)と黒田長政は帰国せずに大阪に留まり、徳川家康と誼を通じた。
慶長4年(1599年)12月、黒田如水(黒田官兵衛)は天下の情勢を鑑み、徳川家康から帰国許可を得ると、黒田長政を大阪に残し、豊前の中津(大分県中津市)に帰国する。
慶長5年(1600年)春、黒田如水(黒田官兵衛)は「大阪」「備後の鞆」「周防の上関」に足の速い船を配置し、早舟をリレーさせることで、大阪からの情報を豊前の中津(大分県中津市)へと届けさせるようにした。
このため、大阪で起きた事は、3日で中津に居る黒田如水(黒田官兵衛)の耳に届いた。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田官兵衛(黒田如水)が中津城で挙兵のあらすじとネタバレ」へ続く。