黒田如水(黒田官兵衛)が兵士を募集

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)が兵士を募集したあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水(黒田官兵衛)が石田三成に九州7カ国を要求したあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■黒田如水の凶日
慶長5年(1600年)7月、豊前・中津城に居る黒田如水(黒田官兵衛)は、大阪から来た使者の報告で石田三成が大阪で挙兵した事を知り、挙兵を決意すると、黒田如水は家臣を集めて、出陣の日を慶長5年(1600年)9月9日と定め、家臣に出兵の準備を命じた。

すると、黒田家の家臣・井上九郎右衛門と母里太兵衛が、「時期尚早です。徳川家康が江戸を出発し、戦況を聞いてからでも遅くはないでしょう」と黒田如水の出陣を諫めた。

すると、黒田如水(黒田官兵衛)は「石田三成の反逆は隠しようのない事実であり、徳川家康の出陣を待つ必要は無い。徳川家康の出陣を待ってから出兵したのでは、日和見戦となり、武道の本意に背く。徳川家康が江戸を発つ前に九州を従えてこそ忠義である」と答えた。

井上九郎右衛門と母里太兵衛は「出陣の準備は引き受けました。しかし、9月9日には凶日なので、日を選び直して欲しい」と頼むと、黒田如水(黒田官兵衛)は「9月9日が凶日ならば、お主らは吉日を選んで後から来い」と激怒した。

すると、母里太兵衛は涙を流して「なんたる無情ぞ。我らは殿に一命を捧げている。凶日と言えど、殿の後から出陣するような事はしない。我らが凶日を忠告したのは、殿の身に災いが及ばないようにするためです」と嘆いた。

これを聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は、母里太兵衛の思いやりに感動し、酒を注いで家臣と回しのみをして、黒田軍団は心を1つにしたのであった。

(注釈:母里太兵衛の生涯のあらすじとネタバレは「母里太兵衛(母里友信)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

(注釈:井上九郎右衛門の生涯のあらすじとネタバレは「井上九郎右衛門(井上之房)と井上崩れ(井上くずれ)のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)

■黒田如水が浪人を集める
慶長5年(1600年)8月、黒田如水(黒田官兵衛)は出陣の日を慶長5年(1600年)9月9日と定め、家臣に戦争の準備を命じた。

しかし、普段から鍛錬していた兵は黒田長政に従って会津討伐(上杉討伐)に出ていたので、豊前・中津城(大分県中津市)には、わずかに警護の兵士か残っているだけであった。

そこで、黒田如水(黒田官兵衛)は、勘定奉行の杉原氏を呼び、黒田如水(黒田官兵衛)がこれまでに蓄えてた金銀を天守から出して広間に積み上げさせた。

黒田如水(黒田官兵衛)は倹約家として有名で、平素から質素倹約し、有事の際に備えて金銀を蓄えていたのである。

こうして、黒田如水(黒田官兵衛)は金庫を開くと、「何者であれ、奉公したいという者が居れば、貴賤を選ばず、この金銀を与えて召し抱えよ。たとえ出家であっても、出陣の供をしたと思う者が居れば召し抱えよ」と命じ、領内に触れを出した。

また、黒田如水(黒田官兵衛)は「我が常々、倹約して、無用な出費をしなかったのは、このような時に金銀を多く使うためである。この度の軍用に金銀が足りないという事があってはいけない」と言い、家臣に相応の金銀を配り、家臣の戦の準備にお金が不足しないように配慮した。

さて、黒田如水は領内に兵士募集の触を出すと、豊臣秀吉の九州征伐で家を取りつぶされた豪族の家来や、刀狩り令で帰農した元兵士や地侍などが次々と集まり、その数は3600人に達した。

元兵士と言っても、既に武具を売り払った者や素浪人のような者も多かったが、この時に荒牧軍兵衛・小城源兵衛・大塚角太夫・樋口山城・中間喜兵衛などの一騎当千の強者も集まった。

こうして大勢の兵士が集まると、黒田如水(黒田官兵衛)は、家臣の貝原市兵衛と杉原一茶に命じて、集まった兵士に支度金を配らせた。

黒田如水(黒田官兵衛)も自ら金銀を配り、老兵が来れば「その年で役に立とうとする志が見事だ」と褒め、若者が来れば「面魂が常ならず」と褒めて金銀を渡した。

いつの時代でも小ずるい者が居る者で、1度支度金を貰ったにもかかわらず、もう1度、列に並び、2度も支度金を貰うような者が現れた。

支度金を配っていた貝原市兵衛が、こに気づいて黒田如水(黒田官兵衛)に報告すると、黒田如水は「ワシが日頃、倹約して金を貯めたのは、こういう時のためだ。2重に払っても味方になって働けば良い。同じ者が2度来ても景気づけになる。狭い了見で考えるな」と言い、2重払いを黙認させた。

すると、噂が噂を呼び、農民や商人など、ありとあらゆる階級から人が集まり、黒田如水(黒田官兵衛)の軍勢は、残っていた留守兵も入れて9000余りに膨れあがったのである。

黒田如水(黒田官兵衛)が挙兵するために兵を集めたのは慶長5年(1600年)8月、黒田如水が55歳、黒田長政が33歳の事であった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「大友義統の豊後奪還作戦-九州の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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