黒田如水(黒田官兵衛)の挙兵-如水原で大友義統を罵倒
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)の挙兵-如水原で大友義統を罵倒したあらすじとネタバレ」です。
このページは「大友義統の豊後奪還作戦-九州の関ヶ原の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田如水の出陣
慶長5年(1600年)9月5日、関東からの使者が来て黒田如水(黒田官兵衛)に報告する。東軍が西軍の岐阜城を攻め落としたという知らせてあった。黒田如水は直ちに肥後・隈本城の加藤清正にも、東軍の情勢を伝えた。
慶長5年(1600年)9月8日、黒田如水(黒田官兵衛)の元に大友義統からの返答の使者が来る。黒田如水が大神大学と宇治勘七を派遣して、東軍に下るよう大友義統を説得したが、大友義統は「猶予が欲しい。豊後に上陸したら、使者を送って返事する」と返事を避けていた。
大友義統は慶長5年(1600年)9月8日に豊後に上陸すると、約束通りに黒田如水(黒田官兵衛)へ使者を送り、「私は豊臣秀頼様の命を受けて下向した。足下(黒田如水)も太閤秀吉に大恩があるだろう。私と一緒に行動を共にせよ」と返答したのである。
すると、黒田如水(黒田官兵衛)は「大友義統が手切れの手紙をよこす事は予期していた。朝鮮の卑怯者ごとき相手ではない。しかし、大友義統は名門の嫡流なので、旧領に復帰したとなれば四方より旧家臣が集まり、加勢するだろう。大友義統が勢いづく前に討つべし」と言い、豊後への侵攻を決定した。
黒田如水は黒田修理に700人の兵を与えて中津城の守りを命じると、9000の兵を8つに分け、慶応5年(1600年)9月9日は凶日であったが、予定通りに中津城を発ち、西へと兵を進め、隣国・豊後(大分県)を目指した。
慶応5年(1600年)9月10日、黒田如水(黒田官兵衛)は高原に全軍を整列させると、床机に座って「大友義統は朝鮮で敵を見ずに逃げ出した臆病者ゆえに豊後を召し上げられたが、この度、大友義統が豊後を賜り、豊後に下向し、我に対面しようということ片腹痛し。大友義統は臆病者である。大友義統に付き従う者も臆病者と心得よ。大友義統が何万騎を持とうと、百に一も負ける事は無い。大友義統を生け捕りにせよ。生け捕りにした者は下人でも、褒美として1000石を与える」と言い、兵士を鼓舞した。
(注釈:大友義統が「朝鮮の卑怯者」と呼ばれる理由のあらすじとネタバレは、「大友義統は『朝鮮の卑怯者』のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)
なお、黒田如水(黒田官兵衛)が演説した高原は、後に「如水原(じょすいげん/じょすいばる)」と呼ばれるようになった。
如水原の場所は現在の住所で大分県中津市上如水の周辺一帯で、当時の住所は豊後国下毛郡助部村である。
しかし、住所に下毛(しもげ)と助部(すけべ)が入っていては、非常に卑猥だったので、住人が住所を答えるのに恥ずかしい思いをしたため、明治時代に「如水村」と改名した。
助部(すけべ)が大字として残り、「如水村大字助部」という住所が残ったが、昭和時代に如水村が中津市に編入された時に、大字助部は「上如水」へと改称し、「大分県中津市上如水」という地名が生まれた。
■豊後の状況
さて、豊後(大分県)は大友義統が改易された後、豊後は7つ大名に与えられており、7つの小大名が割拠していた。この7つ大名を豊後7党と呼ぶ。
すなわち、豊後7党とは、高田城の竹中重隆、富来城の垣見一直、安岐城の熊谷直盛、府内城の早川長政、臼杵城の太田一吉、日隈城の毛利高政、竹田城の中川秀成の7大名である。
杵築城は、丹後(京都府北部)12万石の大名・細川忠興の飛び領地なので、豊後7党には数えない。
豊後(大分県)の7党は西軍に属し、主力部隊を大阪へ派遣しているため、残っているのは警備の兵だけで、戦意は無く、周辺の状況を日和見していたが、旧領主の大友義統が豊後を回復するため、豊後に上陸すると、豊後7党はにわかに活気づいた。
■黒田如水が竹中重隆に激怒
さて、隣国の豊後へと侵攻した黒田如水(黒田官兵衛)は、豊後・高田城(大分県豊後高田市)の城主・竹中重隆と東軍に属する密約を交わしていたため、高田城にさしかかると、竹中重隆に出兵を求めたが、竹中重隆は病気と称して猶予を求めた。
高田城の城主・竹中重隆は軍師・竹中半兵衛の従弟で、黒田如水(黒田官兵衛)とも親しかったが、石田三成とも親しかった。
そこへ、大友義統が豊後(大分県)へ上陸して、豊後7党が活気づいたので、高田城の城主・竹中重隆の気持ちは東軍から西軍へと気持ちが傾いていたのだ。
すると、黒田如水(黒田官兵衛)は「竹中重隆に二心あり。敵とも味方とも分からぬ者を背後に置くわけにはいかない。竹中重隆を軍神の血祭とするべし」と激怒し、黒田家の旗奉行・竹森新左衛門に高田城を包囲させた。
竹中重隆の老臣・不和三太夫大は、これに驚き、裸馬を走らせて黒田如水(黒田官兵衛)の本陣に駆け込んで謝罪し、「名代として嫡子・竹中重義に出兵させます」と約束した。こうして、竹中重隆は嫡子・竹中重義に200騎を与えて、黒田如水の陣に派遣した。
■杵築城からの使者
さて、竹中重隆を加えた黒田如水(黒田官兵衛)が高田城(豊後高田市)を通過し、赤根坂(住所は大分県国東市国見町赤根)に差し掛かった所で、杵築城の城主・松井康之の使者が来た。
そして、使者は黒田如水(黒田官兵衛)に「杵築城が大友義統の家臣・田原紹忍(田原親賢)に包囲されました。しかし、幸いにも黒田如水の助言で城を強固にしているので、援軍の必要はありません」と告げた。
これを聞いた黒田如水(黒田官兵衛)は「ただ事の急なる事だけを告げ、援軍を請わぬとは松井康之も有吉立行も見上げた者だ。しかし、私は援軍の約束をしている。杵築城が攻められている事を知った以上は、見過ごすわけには行かない」と言い、家臣・井上九郎右衛門に3000騎を与えて杵築城へ向かわせた。
こうして、家臣・井上九郎右衛門に赤根坂から南下して直接、杵築城へ向かい、黒田如水(黒田官兵衛)は本隊を率いて東へと進み、豊後にある富来城(大分県国東市国東町富来浦)を目指したのであった。
一方、慶長5年8月23日に岐阜城を攻め落とした西軍は、黒田長政らが合渡川(木曽川)を渡って石田三成らの軍勢を撃破し、赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)にある虚空蔵山の周辺に布陣した。
黒田如水(黒田官兵衛)が凶日を押して中津城を出陣した慶応5年(1600年)9月9日、黒田長政は赤坂周辺の花岡という小山に布陣し、江戸に居る徳川家康が着陣するのを舞っている最中であった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)が富来城と安岐城を通過したあらすじとネタバレ」へ続く。