黒田如水(黒田官兵衛)が富来城と安岐城を通過
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)が富来城と安岐城を通過したあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田如水(黒田官兵衛)の挙兵-如水原で大友義統を罵倒」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田如水と富来城の戦い
家臣・井上九郎右衛門を杵築城へ向かわせた黒田如水(黒田官兵衛)は、赤根坂(住所は国東市国見町赤根)を超えて東へと進み、慶応5年(1600年)9月11日に豊後にある富来城(大分県国東市国東町富来浦)を包囲した。
富来城の城主・垣見一直は西軍・石田三成に属し、手勢を率いて大阪へと出兵していたので、兄の筧利右衛門が富来城を守っていた。
富来城の兵は少なかったが、守将・筧利右衛門は決死の覚悟で守っていいたため、簡単には落ちそうになかった。
黒田如水(黒田官兵衛)は富来城の様子を見て、「城を枕に討ち死にする覚悟だろう。この城を落とすために、兵士をいたずらに傷つけても徳にならない。こんな小城はいつでも落とせる。富来城は捨て置き、立石城の大友義統を攻める」と下知した。
すると、老臣は「豊後で重要な敵は大友義統のみで、後は枝葉です。立石城の大友義統を倒せば、富来城は自然と崩壊するでしょう」と同意した。
黒田如水は富来城の包囲を解くと、母里太兵衛に殿(進軍の最後尾)を命じ、立石城の大友義統を目指して南へと兵を進めた。
■黒田如水と安岐城の戦い
富来城から6里(約23km)ほど南に安岐城があった。安岐城の城主・熊谷直陳(熊谷直盛)は、石田三成の嫁婿で、富来城の城主・垣見一直と共に西軍に属して美濃に出陣していたため、一族の熊谷治郎助(熊谷次郎助)と熊谷栖雲の両名が安岐城を守っていた。
慶応5年(1600年)9月12日、黒田如水(黒田官兵衛)が安岐城の近くに布陣すると、安岐城から物見の鎧武者が数人出てきて、黒田陣営の近くを度々、駆け回るので、黒田家の家臣はこの武者を討とうとした。
しかし、黒田如水(黒田官兵衛)は、安岐城も攻め落とさずに通過しようと考えていたので、「誰1人として打って出てはならない。命令に背いた者は誰であれ、厳罰に処す」と命じた。このため、黒田陣営から打って出る者は1人も居なかった。
その日、栗山四郎右衛門(栗山善助)は黒田如水(黒田官兵衛)に、「安岐城を偵察したところ、なんとなく、城内が騒がしい。明朝、我が軍が出発した後、追撃してくるに違いない。伏兵を置いて敵軍を挟み撃ちにすれば、我が軍の勝利は間違いない」と進言した。
すると、黒田如水(黒田官兵衛)は、栗山四郎右衛門(栗山善助)・肥塚理右衛門・原弥左衛門・斉藤五右衛門・小林甚右衛門に伏兵の任務を命じ、精鋭を選んで計50騎を付けて谷間の藪に潜ませた。
慶応5年9月13日の明け方、黒田如水(黒田官兵衛)は陣営を引き払うと、栗山四郎右衛門(栗山善助)に「伏兵の作戦は栗山四郎右衛門(栗山善助)に一任する。伏兵を早く起こして、敵を討ちもらなさいように」と命じ、全軍を率いて立石城を目指して進軍した。
すると、案のごとく、安岐城の熊谷治郎助(熊谷次郎助)は、兵を出して黒田如水(黒田官兵衛)を追撃させた。
安岐城の軍勢が藪を通り過ぎると、栗山四郎右衛門(栗山善助)は伏兵を起こして鉄砲と弓で散々と攻撃し、頃合いを見計らって、勇士50騎程で安岐城の軍勢に突撃した。
このとき、黒田如水の家臣・本田半三郎が1番に駆け出したので、原弥左衛門・斉藤五右衛門・中村勘助・山脇弥七郎・畑弥平治なども、本田半三郎に負けじと駆けだして戦い、安岐城の軍勢を散々と打ち破った。
栗山四郎右衛門(栗山善助)は勢いに乗じて敵軍を追撃したが、黒田如水の使者が来て、「急いで兵を引くように」と下知を伝えたので、栗山四郎右衛門(栗山善助)は兵を引いた。
しかし、安岐城に居る熊谷治郎助(熊谷次郎助)は、味方の危機を見て、手勢300を率いて援軍に駆けつけ、敗走した兵を集めると、小川の側に陣を敷いて兵を立て直した。
これを見た栗山四郎右衛門(栗山善助)は「このまま引いて、敵が追って来ず、戦いが起こらなければ、敵は必ず、『黒田は城中より出た援軍を見て逃げ出した』と言うだろう。小川を超えて敵を打ち崩し、逃げるようであれば、そのまま逃がす。深追いはするべからず」と言い、追撃を禁じて、敵陣営への攻撃を命じた。
黒田家の家臣・原弥左衛門と子・原吉蔵などが一番に小川に入って突き進むと、本田半三郎も負けじと小川に乗り入れ、黒田軍50騎ほどが一斉に熊谷治郎助(熊谷次郎助)の陣に突っ込んだ。
黒田如水の家臣・小林甚右衛門は、敵が25人居るところに一番乗りし、馬上から敵の武者を槍で突き殺し、馬を下りて刀を抜いて首を取ろうとした。
そのとき、小林甚右衛門は、常々「戦があれば、連れ回してください」と頼んできた若者を見つけたので、若者に「この首を取れ」と言い捨て、敵武者に刺さった槍を抜いて、馬に乗って先へと行った。
小林甚右衛門は朝鮮出兵の戦いで度々、高名していたので、「今日は首を取らずとも」と思い、槍で倒した武者の首を若者に譲ったのである。
さて、黒田軍が我も我もと戦うので、敵は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
黒田軍が逃げる敵を追撃しようとすると、栗山四郎右衛門(栗山善助)が来て、「軍法を破れば、沙汰がある」と言い、追撃を制した。
そこで、黒田軍が勝ちどきを上げようとすると、栗山四郎右衛門(栗山善助)は「今、勝ちどきを上げれば、敵は『追撃してこない』と思い、安心して撤退するので、勝ちどきは無用なり」と言い、勝ちどきを止めさせた。
そして、栗山四郎右衛門(栗山善助)は「軍に勝てば、利得があると思えば、下々の者も勇んで戦うものぞ」と言い、下々の者に敵が残していった物を拾わせた。
さて、栗山四郎右衛門(栗山善助)は黒田如水(黒田官兵衛)の本陣に追いつくと、首実検を行った。
栗山四郎右衛門(栗山善助)らが討ち取った首は計48で、そのうち兜付きは20で、雑兵は28であった。
このなかに、敵の大将・熊谷治郎助(熊谷次郎助)の首があった。黒田家の家臣・岡田三四郎が敵の大将・熊谷治郎助(熊谷次郎助)を討ち取ったので、黒田如水は岡田三四郎に感謝状を贈った。
さて、黒田家の家臣・小林甚右衛門は討ち取った武者の首を若者に譲ったが、小林甚右衛門は首実検の時に何も言わなかったので、若者が首実検の時に「小林甚右衛門が槍を突けて、私に取らせた首です。全く私の手柄ではありません」と申告した。
黒田如水(黒田官兵衛)はこれを聞いて小林甚右衛門に感心し、小林甚右衛門に禄を多く与えた。黒田如水(黒田官兵衛)は、正直に話した若者にも感心した。
こうして、黒田如水(黒田官兵衛)は、豊後(大分県)の国東半島を時計回りに周り、富来城と安岐城を通過すると、西へと進路を取り、東軍に属する杵築城を目指したのである。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)と杵築城(きつきじょう)の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。