黒田如水(黒田官兵衛)と大友義統-杵築城の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)と大友義統-杵築城の戦いのあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田如水(黒田官兵衛)が富来城と安岐城を通過したあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■杵築城(きつきじょう)の戦い
慶長4年(1599年)8月、前田利家の死後、摘男・前田利長は前田利家の遺言に背いて本国・加賀(石川県)に帰国した。すると、「前田利長が徳川家康の襲撃を企てている」という噂が流れた。
徳川家康はこの噂を利用して前田利長の討伐を表明したが、前田利長は母・芳春院を人質として徳川家康に差し出したので、加賀討伐は回避された(徳川家康の加賀討伐)。
このとき、丹後・田辺(京都府舞鶴市)12万石の大名・細川忠興は、前田利長の縁者であったため、徳川家康の疑いの目は細川忠興にも向けられた。
すると、細川忠興は進んで徳川家康に人質を差し出して身の潔白を証明したため、徳川家康は大いに喜んだ。
その結果、慶長5年(1600年)2月、徳川家康は「大阪屋敷の台所が苦しいだろう。大阪屋敷の台所料にせよ」と言い、丹後・田辺(京都府舞鶴市)12万石の大名・細川忠興に、杵築城(大分県杵築市)を含む豊後国速見郡6万石を与えたのである。
細川忠興に豊後国速見郡6万石を与えたのは、九州には徳川家康の味方が黒田如水と加藤清正しか居ないので、九州に味方を増やす意味合いがあったとされている。
こうして、豊後国速見郡にある杵築城(大分県杵築市)は細川忠興の飛び領地となり、細川忠興は家臣の松井康之と有吉立行の2人を杵築城(大分県杵築市)に入れた。
さて、慶長5年(1600年)7月、徳川家康が会津の上杉景勝を討伐するため、諸将を率いて関東へ下向すると、その突きを付いて石田三成が豊臣秀頼を擁立して大阪城で挙兵した。
そして、西軍・石田三成は東軍の大名・細川忠興を改易し、細川忠興の丹後・田辺(京都府舞鶴市)12万石を西軍に属する近隣の大名に与えた。
これに驚いた細川忠興は、周辺諸国の西軍から本国の丹後・田辺(京都府舞鶴市)を守るため、飛び領地の杵築城(大分県杵築市)に派遣した松井康之と有吉立行に帰国を命じた。
九州において東軍に属する有力な大名は豊前・中津城の黒田如水(黒田官兵衛)と肥後・隈本城の加藤清正だけだったので、帰国命令を受けた松井康之(松井佐渡)は周辺の農民を人質に取って杵築城の守備を固めると、豊前・中津城に立ち寄り、黒田如水(黒田官兵衛)に杵築城を託した。
そして、松井康之と有吉立行は下関から船に乗って日本海を経由して丹後(京都府北部)へ戻ろうとしたが、細川忠興が既に改易されているため、船頭は松井康之・有吉立行を「落ち武者」として扱い、船に乗せなかった。
これに困った松井康之・有吉立行は黒田如水(黒田官兵衛)に「船を貸して欲しい」と頼んだが、黒田如水(黒田官兵衛)は「九州の風雲も刻々と迫っているため、船は貸せない。もし、他で船を借りることができれば、賃料はいくらでも貸す」と断った。
松井康之と有吉立行は船を探したが、九州のほとんどが西軍だったため、一切、船を借りることが出来なかったので、丹後(京都府北部)へ戻る事を諦めて杵築城へ戻り、籠城する道を選んだ。
慶長5年(1600年)8月4日、石田三成は松井康之に杵築城(大分県杵築市)の明け渡しを命じ、杵築城の受取人として大田一成を派遣した。
慶長5年(1600年)8月13日、大田一成が井康之(松井佐渡)に杵築城(大分県杵築市)の明け渡しを求めた。
しかし、松井康之と有吉立行は杵築城(大分県杵築市)を明け渡しを拒否し、黒田如水や加藤清正の支援を受け、杵築城の守備を固めた。
このため、石田三成は、朝鮮出兵で臆病を働いて改易された豊後の元領主・大友義統に、杵築城(大分県杵築市)を含む豊後国速見郡6万石を与え、銀子3000枚・鉄砲300挺・槍100本・甲冑100領・馬100頭を与えたのである。
(注釈:大友義統が改易された理由は「大友義統は『朝鮮の卑怯者』のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)
大友義統の嫡男・大友義乗は、豊臣秀吉によって大友家が改易されたあと、徳川家康の世話になっており、東軍に属していたので、大友家の家臣や黒田如水(黒田官兵衛)は、大友義統に東軍への参加を促した。
しかし、大友義統は家臣や黒田如水(黒田官兵衛)の説得にも応じず、西軍として豊後国速見郡濱脇(大分県別府市浜脇)に上陸したのである。
大友家は、源頼朝の時代に大友能直が豊前・豊後の守護に任ぜられた名家で、父・大友義鎮(大友宗麟)の威武により、筑前・筑後・肥後・日向は父・大友義鎮(大友宗麟)に属していたので、今に至っても大友家の旧恩を慕い、好を忘れざる者は多かった。
このため、大友義統が慶長5年(1600年)9月8日に船で豊後国速見郡濱脇(大分県別府市浜脇)に上陸すると、四方より旧家臣が兵糧を携えて駆けつけ、大友義統の軍勢は3000に膨れあがったのである。
さて、駆けつけた旧家臣・田原紹忍(田原親賢)は「黒田如水の言うことはもっともです。大友家は豊臣秀吉に滅ぼされたのに、何故、西軍の味方をするのですか。徳川家康に味方し、お家を復興するべきです」と意見した。
しかし、大友義統は「この度、幼君・豊臣秀頼よりのかたじけない御意より、豊後を賜った。また、浪人の間、毛利輝元から深い恩を受けたので、一命を捨ててこの恩に報いるものなり」と答えた。それを聞いた田原紹忍(田原親賢)は、大友義統に感心した。
さて、大友義統は豊後国速見郡6万石を拝領したが、杵築城には細川忠興の家臣・松井康之と有吉立行が立て籠っており、杵築城を奪還するため、どこかに本陣を敷く必要があった。
そこで、田原紹忍(田原親賢)が「良き要害があります。速見郡立石は、後ろは険しい山があり、前は岩岸が高くてつづら折りになる細道です。ご先祖・大友能直が源頼朝より豊後を賜り、この地に下りたとき、まず、立石にお上りになりました。また、父・大友義鎮(大友宗麟)も立石にて勝利を得た吉例もございます。ここに陣を敷きたまえ」と提案した。
立石城は、杵築城の南西6里(23.5km)の場所にある立石山の中腹部にある古城で、背後は山に囲まれ、前面に「石垣原(いしがきばる)」と呼ばれる傾斜した平原が広がる要害であった。
大友義統は田原紹忍(田原親賢)の提案を受け入れると、急いで立石山に上り、立石城を修復して、杵築城を攻める拠点とした。
一方、杵築城の松井康之と有吉立行は、黒田如水(黒田官兵衛)と加藤清正の援助を受け、籠城の準備をしており、周辺の農民を人質にとって籠城していた。
慶長5年(1600年)9月10日、大友義統の家臣・田原紹忍(田原親賢)らが手勢300人程を率いて杵築城を包囲した。
杵築城の守りは堅かったが、杵築城の野原太郎右衛門が大友義統に内応したので、田原紹忍(田原親賢)は杵築城二の丸まで攻め入り、残すを本丸だけとした。
しかし、慶長5年(1600年)9月12日に黒田如水(黒田官兵衛)の先手・井上九郎右衛門が3000騎を率いて杵築城に駆けつけると、田原紹忍(田原親賢)は退路を断たれることを恐れ、杵築城の包囲を解いて撤退した。
井上九郎右衛門は杵築城の援軍に駆けつけたが、既に田原紹忍(田原親賢)は退却した後だったので、杵築城の松井康之・有吉立行と軍議を行い、大友義統の拠点・立石城を攻める事にした。
こうして、井上九郎右衛門は翌日の慶長5年(1600年)9月13日に杵築城を出て立石城へと兵を進めたのである。
一方、黒田如水(黒田官兵衛)は、豊後(大分県)の国東半島を時計回りに周り、杵築城を目指しており、慶長5年(1600年)9月13日に安岐城を通過して、杵築城を目指して進軍していたのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)の石垣原の戦い-九州の関ヶ原のあらすじとネタバレ」へ続く。