久野四兵衛と久野次左衛門の生涯
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの黒田24騎伝「久野四兵衛と久野次左衛門の生涯」です。
■久野四兵衛のwiki
久野四兵衛(ひさのしべえ)は、黒田家の家臣を代表する「黒田24騎」の1人で、「博多町割り(太閤町割)」や「名護屋城の陣営割り」で活躍し、「待ち割りの名人」として評価された。
久野は「クノ」ではなく、「ヒサノ」と読み、久野四兵衛は「クノ」と呼ばれると、「ヒサノ」と訂正したと伝わる。
■久野四兵衛の生涯
久野四兵衛は播磨国加東郡(兵庫県加東市)の出身。久野氏は代々、播磨の豪族で、播磨国加東郡にある拮槹城(金釣瓶城)の城主を務めた。
父・久野重誠の時代に主家・赤松家との関係が悪化し、御着城の城主・小寺職隆を頼ったため、久野四兵衛は幼少期から黒田官兵衛に仕えるようになる。後に久野四兵衛は高給を貰うように成り、黒田家の家臣の長になった。
■久野四兵衛の九州征伐
天正14年(1586年)、豊臣秀吉による九州征伐で、小早川隆景らが筑前国の高祖城を攻めたとき、黒田官兵衛は目付役として久野四兵衛を派遣していた。
このとき、久野四兵衛は高祖城攻めに加わり、月毛の馬に乗って高祖城の大手門まで一番駆けをした。
すると、高祖城の城主・原田信種は久野四兵衛の勇気を見て戦意を喪失して降伏したので、久野四兵衛は豊臣秀吉から感謝状を貰った。
■久野四兵衛の博多町割り
筑前の博多は貿易で栄えていたが、九州統一を巡る度重なる戦火で消失していた。そこで豊臣秀吉は九州平定後、黒田官兵衛や石田三成に博多の復興を命じた(博多町割り/太閤町割)。
焼け野原となった博多は草で覆われており、町割りも困難な状態だったが、黒田官兵衛の家臣・久野四兵衛は古井戸を探し、古井戸から町の経営を想定して町割りを決め、わずか20日で博多復興の礎を築いた。
■久野四兵衛の豊前時代
黒田官兵衛の豊前入国後、久野四兵衛は6000石を賜り、黒田家の家老となった。
豊臣秀吉は朝鮮出兵のとき、名護屋城を築いた。このとき、豊臣秀吉は近臣に各軍勢の小屋を作るように命じたが、全く捗らなかったので、豊臣秀吉は黒田官兵衛を呼び出し、黒田官兵衛に各軍勢の小屋の縄張りを命じた。
このとき、黒田官兵衛に同行していた久野四兵衛は、常に使用人に小銭を持たせていたので、小銭を使って即興で小屋の配置図を作った。
黒田官兵衛は所々、修正を加えて豊臣秀吉に見せると、豊臣秀吉は「早速できた」と喜び、久野四兵衛の知恵に感謝した。
■久野四兵衛の朝鮮出兵
豊臣秀吉による朝鮮出兵のとき、久野四兵衛は黒田長政に付き従って朝鮮半島に渡る。
文禄2年(1592年)、久野四兵衛は平壌での戦いのとき、偵察に出た。久野四兵衛は散々と敵を討取って帰陣したが、深手を負ったため、翌日に死亡した。
久野四兵衛は戦場で数々の功名を挙げたが、伝記などが無く、詳細が分からず、博多の町割りや名護屋城の縄張りだけが伝承として残ったため、「待ち割りの名人」として現在に伝わる。
■久野四兵衛の死後
久野四兵衛の死後、16歳の嫡子・久野次左衛門(久野治右衛門は誤字)が家督を相続し、朝鮮半島へと渡り、父・久野四兵衛の家人をそのまま召し抱え、軍役を引き継いだ。
■久野次左衛門と野村市右衛門の遺恨
朝鮮半島でのある戦いのとき、久野次左衛門と野村市右衛門の2人が唐人(中国人)を追いかけたが、久野次左衛門は落馬してしまい、野村市右衛門が唐人を討取った。
野村市右衛門は黒田家の家臣・野村太郎兵衛(黒田24騎の1人)の息子で、久野次左衛門はこの時の遺恨から、野村市右衛門と武勇を争うようになった。
■久野次左衛門の石垣原の戦い
関ヶ原の合戦のとき、久野次左衛門は豊前・中津城に居り、中津城で挙兵した黒田如水(黒田官兵衛)に従軍して豊後に侵攻した。
久野次左衛門は野村市右衛門と競って武功を上げ、老将に勝る活躍をしていたので、黒田如水(黒田官兵衛)は感心し、久野次左衛門に第2陣の大将を任せた。
しかし、久野次左衛門は19歳と若かったので、黒田如水(黒田官兵衛)は心配して歴戦の猛者・曾我部五右衛門を久野次左衛門の後見人として付けた。
(注釈:曾我部五右衛門は、伊予松山の城主・黒川美濃守の嫡子で、豊臣秀吉に滅ぼされて浪人となり、黒田官兵衛に仕えた。このとき、「黒」の字を避けるため、母方の姓「曾我部」を名乗った。曾我部五右衛門は石垣原の戦いのとき、38歳であった。)
さて、井上九郎右衛門を大将とする黒田軍の先発隊は、立石城の前に広がる石垣原において、大友義統の軍勢と対峙した。
黒田家の第1陣の時枝平太夫・母里与三兵衛が敗走すると、第2陣の久野次左衛門が兵を進めて敵を良く防ぎ戦ったが、野村市右衛門と武勇を争っていたので、功を焦り、後見人・曾我部五右衛門の意見を聞かず、敵軍に突っ込んだ。
久野次左衛門は敵陣の中で激しく戦ったが、敵は大勢だったため、終いには討ち取られてしまった。
久野家には、光留立右衛門・麻田甚内・山本勝蔵・稗田九蔵(卑田九蔵)・下田作右衛門・久保庄助という久野家の家臣を代表する6人の家臣が居た。
石垣原の戦いのとき、光留立右衛門・麻田甚内・山本勝蔵・稗田九蔵(卑田九蔵)・下田作右衛門・久保庄助の6人は、命よりも義を重んじて、主君・久野次左衛門の周りで敵と戦い、6人とも久野次左衛門と同じ場所で討ち死にした。
また、後見人・曾我部五右衛門も、久野次左衛門を見捨てることが出来ず、大友軍と戦い、大友軍の第2陣の大将・宗像鎮統と差し違えて討ち死にした。
(注釈:久野次左衛門の活躍は「黒田如水(黒田官兵衛)の石垣原の戦い-九州の関ヶ原のあらすじとネタバレ」をご覧下さい。)
■久野次左衛門の死後
久野次左衛門は、母里太兵衛の娘と結婚していたが、跡取りの居ないまま戦死したので、久野次左衛門の家督は弟・久野重時(久野次右衛門)が相続した。
黒田官兵衛・黒田長政や黒田家家臣の武勇伝は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧下さい。