井上九郎右衛門と吉弘統幸の一騎打ち-石垣原の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「井上九郎右衛門と吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の一騎打ち-石垣原の戦いのあらすじとネタバレ」です。
このページは「黒田如水(黒田官兵衛)の石垣原の戦い-九州の関ヶ原」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■井上九郎右衛門と吉弘統幸の一騎打ち
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大身にして剛力で、大友義統の家臣を代表する豪傑である。吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の武勇は、朝鮮出兵で天下無双の働きをして豊臣秀吉からその働きを絶賛され、朱槍を賜った程である。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大友家の一族で代々、大友家の先手を務める士頭の家系であった。祖父も父も吉弘嘉兵衛を名乗った。祖父・吉弘嘉兵衛は日向で死に、父・吉弘嘉兵衛は後に吉弘宗甚を名乗った。
父・吉弘嘉兵衛は、筑前国にある岩屋城の城主・高橋紹運の兄で、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は甥である。
また、立花左近(立花宗茂)は岩屋城の城主・高橋紹運の子なので、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は立花左近(立花宗茂)の父方の従兄弟に当る。
さて、朝鮮出兵のとき、大友義統は臆病を働いたとして領土の豊後(大分県)を召し上げられると、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は浪人となったが、黒田如水(黒田官兵衛)に招かれて豊前を訪れ、黒田如水の家臣・井上九郎右衛門の世話になった。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は井上九郎右衛門の領土にしばらく逗留した後、筑後・柳川城(福岡県柳川市)の城主・立花左近(立花宗茂)の招きによって筑後の柳川へ行き、浪人の間の扶助として2000石を賜り、数年間を過ごした。
一方、大友義統は豊後が召し上げられたとき、中国の毛利預かりとなったが、大友義統の嫡男・大友義延(大友義乗)は、徳川家康の預かりとなり、江戸の牛籠という所に住んでいた。
その後、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は、石田三成が大阪城を占領して挙兵したという知らせを受けると、「世の中の成り行きを思うに、徳川家康のご利運になる事は間違いない。幸い嫡男・大友義延(大友義乗)が関東にいらっしゃるので、嫡男・大友義延(大友義乗)を盛り立て大友家を再興しよう」と決意した。
そして、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は立花左近(立花宗茂)に暇を乞うと、立花左近(立花宗茂)は「その方の志は義なり」と言い暇を与えた上に交通費として金を与えた。
すると、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は「数年間、扶持を賜りながら、ご恩を果たせずして暇を乞う申す事は義の至り。にもかかわらず、お暇を賜り、その上、金子まで多く賜ることは、誠にお恵み忘れがたし。これは我が先祖より伝わる太刀です。今度、上方において我らは、どのような成果になるか分りませんので、形見にお受け取りください」と言い、忠光の太刀を立花左近(立花宗茂)に差し出した。
これを聞いた立花左近(立花宗茂)は涙を流して、「大友義延(大友義乗)を盛り立てるため、関東へ行くことに感心した。汝を左右の手のごとく頼もしく思っていたので、ここに留めたいと思い思えど、義によって命を惜しまない事なれば、力は及ばず。また、その方の家に伝わる太刀を形見に賜るのは誠に感悦である。この脇差しは私が常に身につけているの物なので形見にしたまえ」と言い、腰に刺していた脇差しを抜いて吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)に与えた。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は立花左近(立花宗茂)から脇差しを受け取ると、しばらく顔も上げずに泣いていたが、やがて暇を賜り、関東を目指した。
一方、大友義統は改易されたと、毛利家預かりとなっていたが、豊臣秀吉の死後、自由の身となり、大阪で謹慎していた。
大阪城で挙兵した石田三成は、東軍に属する豊後・杵築城の松井康之に城の明け渡しを求めたが、松井康之がこれを拒否したため、豊後の旧領主・大友義統を呼び寄せ、杵築城を含む豊後国速見郡6万石を与えたのである。
こうして、大友義統は、旧領土の豊後を回復するため、大阪で挙兵したのである。
さて、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)が大阪に入ると、中国の毛利預かりとなっていた旧主君・大友義統が泉州境に居る事を知り、急いで泉州境へ行き、大友義統と対面する。
すると、大友義統は「今度、毛利輝元・増田長盛から承るに、豊臣秀頼公より本領・豊後国を下され、そのうえ、支度の費用として具足100領・馬100頭・鑓100本・鉄砲300挺・銀3000枚を賜った。急いで豊後に下り、九州を鎮めよという仰せである。汝は良きときに来たものだ。我が供をせよ」と命じた。
これを聞いた吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は「いやいや、そのようなことをすれば、殿のご武運は益々悪くなり、ただご運が尽きてしまうだけです」と答えた。
この答えには、大友義統も、大友義統の側に居た木部元琢、竹田津一卜も興ざめした様子であった。
大友義統が「では、汝はどのように思うのだ」と尋ねると、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は「天下は徳川家康のお手に入るでしょう。この度の乱は、天下を望む石田三成の謀計によって起こったことです。逆謀を担いで、いったん利運が来たとしても、悪名を末代まで残し、浅ましきことです。その上、御身も御名も共に失ってしまいます。大友義延(大友義乗)は徳川家康に属し、江戸に居るので、大友義延(大友義乗)と供に徳川家康の見方をするのが当然です。これは大事な分別なので、よく思案して、後悔の無いようお謀りください。私は大友義延(大友義乗)を盛り立てるため、立花左近(立花宗茂)に暇を乞い、関東へ参る所です」と答えた。
しかし、大友義統は同心しなかった。吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は再三にわたり、説得したが、力が及ばず、大友義統の心は変わらなかったので、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大友義統と別れた。
翌日、大友義統は豊後に下るため、傳法という所まで進んだ。
一方、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は関東へ向かうため、旅館に帰ったが、「今、滅亡が極まりたる目の前の主君を捨て、世に出て当然の遠く関東に居る大友義延(大友義乗)の元へ向かうのは不義である。もはや我が運命は尽き果てている。ならば、大友義統の供をして豊後に下り、本国の土とならん」と思い、船に乗って大友義統を追いかけた。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)が傳法という場所で大友義統に追いつくと、大友義統は吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)を見て大いに喜んだ。
その後、黒田如水(黒田官兵衛)の使者・宇治勘七と大神大学が来て、大友義統に東軍へ属するように説得したので、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は再び大友義統を説得したが、結局、大友義統は最後まで同心しなかった。
こうして、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は豊後に上陸すると、宗像掃部と話し合って「快く討ち死にしよう」と決めた。
そして、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は石垣原の合戦に出陣するとき、大友義統の前に出て「この戦に例え打ち勝ったとしても、殿の御利運にはなりません。私はこの度の戦いで討ち死にすると決めているので、御対面はこれが最後とお思いください」と言い、涙を流して石垣原へと出陣したのである。
慶長5年9月13日(関ヶ原の合戦の2日前)、第1陣の吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は石垣原で前線に布陣して、黒田軍と合戦に及び、黒田軍の第1陣の時枝平太夫・母里興三兵衛を押し返し、続く黒田軍の第2陣の久野次左衛門・曾我部五右衛門と激しく揉み合った。
黒田軍の第2陣の大将・久野次左衛門と曾我部五右衛門の両将が討ち死にすると、黒田軍の大将・井上九郎右衛門は、第3陣を投入した。黒田軍の3陣は、井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助であった。
黒田軍の3陣・野村市右衛門は、「敵は皆、歩兵なり。本来なら、騎馬隊で簡単に蹴散らすところだが、敵は討ち死にを覚悟しているので、簡単には追い払えない。みんな、馬から下りて槍が折れるほど突き合わなければ、勝利を得ることは出来ない」と下知すると、多くの者が馬から下りた。
しかし、野村市右衛門は朝鮮出兵の時に左膝を負傷して、足が不自由だったので、馬から下りなかった。
(注釈:野村市右衛門の生涯のあらすじとネタバレは「野村市右衛門(野村祐直)の生涯のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
一方、大友義統は第1陣の吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)に使いを送り、「戦い疲れた兵で、敵の新手と戦う事は危うい。兵を引きたまえ」と命じたが、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は「仰る事はごもっともです。しかし、今日、討ち死にすると決めている以上、退くわけにはいきません」と答えて撤退を拒否した。
大友義統は再度、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)に使者を派遣して説得したが、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は同心せずに兵を引かないため、大友義統は「吉弘嘉兵衛を討たすな」と言い、援軍を送った。
こうして、石垣原において黒田軍と大友軍が入り乱れるなか、大友軍の大将・吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は朱槍を振るって黒田軍をなぎ倒していると、黒田軍の大将・井上九郎右衛門を見つけて駆け寄ったのである。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大友家が改易された後、黒田如水(黒田官兵衛)に招かれて黒田家の客将となり、井上九郎右衛門の元で世話になっていたので、2人は旧知の仲だった。
井上九郎右衛門は吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)を見て「良き敵なり」と言い、少し語り合うと、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)と矛を交えたが、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は大柄で剛力だったので、小身の井上九郎右衛門は簡単に叩き付けられてしまった。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の朱槍は何度も井上九郎右衛門の胸を突いたが、井上九郎右衛門は運が良かったので、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の朱槍は井上九郎右衛門の鎧を突き破る事が出来なかった。
そこで、井上九郎右衛門が吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の顔を狙って槍を突くと、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は槍を交わしたが、井上九郎右衛門の槍は十文字になっており、十文字槍の横手が吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の兜の緒を切った。
すると、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は兜がずれて視界をふさがれたので、吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は槍を振りながら退いた。
そのとき、井上九郎右衛門は吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の左脇の下に鎧の隙間を見つけたので、槍で左脇の下に出来た隙間を深く突いた。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は歴戦の猛者であったが、今朝より前線で強く戦い、既に23人の敵を討ち取って疲れ果てているところに深手を負ったので、これ以上は戦う事が出来なくなり、家臣に抱えられて撤退しようとした。
すると、井上九郎右衛門が味方に「吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)の首を取れ」と下知し、後藤太郎助の家人・小栗次右衛門が難なく吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)を討ち取り、井上九郎右衛門は比類無き高名を上げた。
井上九郎右衛門は、黒田如水(黒田官兵衛)の父・黒田職隆に仕え、父・黒田職隆の隠居後も黒田如水ではなく、父・黒田職隆に仕えていたので、戦の経験が少なく、戦での大きな功績は無かった。
しかし、井上九郎右衛門は、その後、黒田職隆の口添えもあり、6000石の高給で黒田如水(黒田官兵衛)に仕えていた。
このため、井上九郎右衛門は皆から冷ややかな目で見られていたが、石垣原の戦いで吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)に槍を突けて高名を上げると、皆は「まるで別人のような活躍だった」と言い、井上九郎右衛門に一目を置くようになった。
吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は井上九郎右衛門の世話になっていた時期があるので、武功の無い井上九郎右衛門が周りの者から冷ややかな目で見られていた事を知っいた。
そこで、討ち死にを決めていた吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)は、井上九郎右衛門に武功を上げさせるため、井上九郎右衛門に一騎打ちを挑んだという逸話もある。
(注釈:井上九郎右衛門の生涯のあらすじとネタバレは「井上九郎右衛門(井上之房)と井上崩れ(井上くずれ)のあらすじとネタバレ」をご覧ください。)
さて、朝鮮の卑怯者と呼ばれる大友義統は、石垣原において、勇猛果敢に黒田軍と戦ったが、大友軍の大将・吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)が討たれると、大友軍は総崩れとなり、立石城へと逃げ込んだのである。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「大友義統が黒田如水(黒田官兵衛)に降伏-石垣原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。
コメント欄
この時、薩摩の島津は何をしていたのですか?
■窪さんへ
島津家は徳川家康と親しい関係にあり、大阪に居た島津義弘は東軍に属するため、東軍の京都・伏見城に入ろうとしましたが、伏見城の守将・鳥居元忠に入場を拒否され、西成り行きで軍に属しました。
しかし、薩摩の島津家は中立という立場を取り、島津義弘の派兵要請を無視し、九州の関ヶ原の合戦でも動きませんでした。