黒田如水と大友義統の石垣原の戦い-立石城の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「大友義統が黒田如水(黒田官兵衛)に降伏-石垣原の戦い(西の関ヶ原の戦い)のあらすじとネタバレ」です。
このページは「井上九郎右衛門と吉弘統幸の一騎打ち-石垣原の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田如水と石垣原の戦い
慶長5年9月13日(関ヶ原の合戦の2日前)、黒田如水(黒田官兵衛)は富来城と安岐城を通過して国東半島を時計回りに周り、安岐城から石垣原の方を目指していると、石垣原から2里手前にある頭無(または頭成)という場所で、石垣原で戦う井上九郎右衛門からの使者2人が来た。
使者が「井上九郎右衛門らは本日、石垣原において大友勢と合戦し、味方が勝利を得ました。大友義統は立石の要害に立て籠っています」と報告すると、黒田如水(黒田官兵衛)は限りなく喜んだ。
また、黒田如水(黒田官兵衛)は、久野治右衛門と曾我部五右衛門が討ち死にした報告を受けると、深く悲しんだ。
そして、黒田如水(黒田官兵衛)は、家人・田代彦助を石垣原へ派遣し、井上九郎右衛門・野村市右衛門らに「石垣原において大友義統と合戦し、勝利したことは誠に神妙である。然るに、大友義統は立石の要害に籠もりたると聞く。立石城は要害なのでみだりに攻めてはいけない。我が本陣の到着を待ちたまえ」と命じた。
こうして、黒田如水(黒田官兵衛)は軍を南進させ、その日の早晩に、立石城から2km北にある実相寺山(實相寺山)に本陣を構えた。
■吉良伝右衛門の首
翌日の慶長5年9月14日(関ヶ原の合戦の前日)、黒田如水(黒田官兵衛)は石垣原の戦いの首実検を行った。
このとき、生け捕りになった大友兵が「大友家には吉良伝右衛門という隠れ無き勇士がいるが、首実検に駆けられた首には吉良伝右衛門の首が無い。吉良伝右衛門は大剛の武士なので、生きて落ち延びるようなことはしない。如何様にも詳しく検分したまえ」と告げた。
これを聞いた井上九郎右衛門の家臣・大村六太夫が前に進み出て、「吉良伝右衛門という者の面はどのようなのか」と尋ねると、大友兵は「吉良伝右衛門は癩病(ハンセン病)の様に見苦しい面構えをしており、武士の顔には見えないでしょう」と答えた。
すると、大村六太夫は「それは、私が昨日、討ち取った首である。昨日、甲冑付きの首を2つ討ち取ったが、そのうち1つは余りにも汚く、癩病(ハンセン病)のように見えたので、首実検には出せないと思い、藪の中に捨てたのだが、家人共が後から拾って持って帰ってきた。その首を出そうではないか」と言い、首を取ってきた。
大村六太夫が持って来た汚い首を見た大友兵は「疑うところ無く、これぞ吉良伝右衛門の首です。吉良伝右衛門を討ち取るには、さぞ骨が折れたことでしょう」と告げた。
吉良伝右衛門は黒田軍の先陣の中で戦い、黒田軍を追いかけて方々へ行き、その帰りに大村六太夫に討ち取られたと伝わる。
■黒田如水と立石城の戦い
黒田如水(黒田官兵衛)は実相寺山(實相寺山)に本陣を敷き、石垣原を隔てて、立石城に籠もる大友義統と対峙した。
このとき、豊後国にある竹田城(大分県竹田市)の城主・中川秀成の使者が来て、黒田如水(黒田官兵衛)に「手勢を率いて駆けつけたので、大友攻めに加えたまえ」と頼んだ。
竹田城の城主・中川秀成は、西軍に属しつつも日和見を決め込んでいたが、石垣原の戦いにおいて黒田如水(黒田官兵衛)が大友義統を破ったと聞き、慌てて東軍に転身し、兵を出したのである。
すると、黒田如水(黒田官兵衛)が「御出陣はご苦労であるが、竹田城は日向(宮城県)との境に近いので、日向・薩摩への備えの要である。志は徳川家康に伝えておくので、急いで帰り、薩摩から兵が出たら、急いで飛脚を送るように」と答えて、中川秀成の使者を帰した。
しかし、中川秀成は再び使者を立て、黒田如水(黒田官兵衛)に「我が居城・竹田城は堅固にて、お気遣いは無用です。大友義統が落ち行くまでは、ここに滞在します」と言い張ったので、黒田如水(黒田官兵衛)は中川秀成を立石城攻めに加えた。
さて、大友義統の家臣は石垣原の戦いで大勢が死に、生き延びた兵も石垣原の戦いでの敗戦を見て、多くが逃げており、立石城に籠もる兵は800となっていた。
そこで、黒家の家臣は黒田如水(黒田官兵衛)に「この勢いに乗って立石城へ攻め寄せ、大友義統を討ち果たしましょう」と意見した。
しかし、黒田如水(黒田官兵衛)は「戦は無用である。大友義統がいかに弱くとも、討ち取るとなると味方にも被害が出る。大友義統を降参させ、生け捕りにして京に送る。大友を脅して、降伏をさせるべし」と言い、母里太兵衛(母里友信)に使者を命じた。
昨日の首実検で田原紹忍の首が無かったので、田原紹忍は立石城に逃げ帰ったのであろう。田原紹忍は臆病者として有名なので、母里太兵衛(母里友信)は田原紹忍に使者を送って田原紹忍を脅しつけると、案の定、田原紹忍は同心して大友義統に降服を勧めた。
大友義統は降伏を決定すると、黒田如水(黒田官兵衛)に使者を送り、「明日の早天に母里太兵衛(母里友信)の陣営に降ろう。そのほどの延引をば、お待ちくだされ」と頼むと、黒田如水(黒田官兵衛)は「少しの延引は苦しからず。明朝の早々に降参するべし」と許可した。
そして、慶長5年9月15日(関ヶ原の合戦の当日)の早朝、大友義統は娘婿・母里太兵衛(母里友信)の陣営に入り、黒田如水(黒田官兵衛)に降伏した。
黒田如水(黒田官兵衛)は、黒田如水の家臣・下野九郎兵衛など大勢を警護に就け、大友義統をカゴに乗せて中津(大分県中津市)へ送り、1間の座敷に込め置き、番の士に日夜を守らせた。
その後、黒田如水(黒田官兵衛)が上京するとき、大友義統を大阪へ連れて行き、黒田長政の屋敷に置き、徳川家康に報告すると、徳川家康は大友義統を陸奥国に流した。
関ヶ原の戦いのとき、大友義統の嫡男・大友義延(大友義乗)は東軍・徳川家康に属していたので、徳川家康は名家の大友家が滅びる句とを哀れみ、大友義延(大友義乗)に「この度の戦いで活躍すれば、その方に本国・豊後を与えよう」と約束していた。
しかし、豊後において大友義統が徳川家康に反逆したので、大友義延(大友義乗)に豊後を与える話は無くなり、大友家はここに途絶えた。
ところで、大友義統が黒田如水(黒田官兵衛)に降伏した日、東では天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」の本戦が行われていた。このため、石垣原の戦いは「九州の関ヶ原の戦い」とも「西の関ヶ原の戦い」とも呼ばれる。
大友義統が黒田如水(黒田官兵衛)に降伏したのは慶長5年(1600年)9月15日、黒田如水(黒田官兵衛)が55歳、黒田長政が33歳のことであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「加藤清正と九州の関ヶ原の合戦-石垣原の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。