黒田如水(黒田官兵衛)と熊谷外記-安岐城の戦い
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)と熊谷外記-安岐城の戦いのあらすじとネタバレ」です。
このページは「加藤清正と九州の関ヶ原の合戦-石垣原の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。
■黒田如水の安岐城の戦い
豊後に侵攻した黒田如水(黒田官兵衛)は、富来城と安岐城を素通りして、豊後の国東半島を時計回りに周り、立石城を目指した。
黒田如水(黒田官兵衛)が慶長5年9月13日(関ヶ原の合戦の2日前)に石垣原に到着した時には、先発隊の井上九郎右衛門が石垣原において大友義統の軍勢を撃破しており、立石城に籠もった大友義統は慶長5年9月15日(関ヶ原の合戦の当日)に降伏した。
すると、黒田如水(黒田官兵衛)は来た道を戻り、前回は素通りした安岐城(大分県国東市安岐町)を慶長5年(1600年)9月17日に包囲した。
安岐城の守将・熊谷治郎助(熊谷次郎助)は素通りする黒田軍を追撃して、黒田如水(黒田官兵衛)の家臣・岡田三四郎に討ち取られたが、安岐城の城主・熊谷直陳(熊谷直盛)は石田三成の嫁婿なので、熊谷直陳(熊谷直盛)の一族・熊谷外記が残りの兵を率いて安岐城に立て籠っていた。
慶長5年(1600年)9月19日、黒田如水(黒田官兵衛)は、後詰めの居ない安岐城が落ちるのは時間の問題であるが、味方の兵をいたずらに消耗したくないと考え、家臣・馬杉喜右衛門を呼んだ。
黒田家の家臣・馬杉喜右衛門は、初めは一柳直末に仕えていたが、一柳直末は小田原征伐の時に山中城の戦いで戦死したので、その後、黒田如水(黒田官兵衛)に仕えた武将である。
(注釈:一柳直末は豊臣秀吉の家臣で、黒田官兵衛の妹婿にあたる。)
安岐城を守る熊谷外記も元は一柳直末の家臣で、馬杉喜右衛門と親しかったため、黒田如水(黒田官兵衛)は馬杉喜右衛門を安岐城へ派遣して、「降参すれば、命は助ける」と降伏を促した。
降伏勧告を受けた熊谷外記は、諸将を集めて評議に及ぶが、「主人の下知を待たずして、城を明け渡して降伏するのは不義なり」という意見や、あるいは「後詰めの味方を待つ頼りは無し。討たれて犬死にするよりも、降伏するべきではないか」という意見も出た。
すると、熊谷外記は「主人の下知無く降伏して、おめおめと縛り首を着られても無念の至りである。降伏しなければ、この城は2~3日で落ちるであろう。多くの人を亡くすのも不憫である。私1人が切腹し、敵に理を申して、残る人は助けてもらおう」と話した。
これを聞いた諸将は熊谷外記の言葉に感動し、「熊谷外記を殺して、残るものは生き延びたとしても恥なり。その儀ならば、我々も討ち死にしよう」と告げた。
すると、平野勘左衛門という者が歩み出て、「熊谷外記の言う事も、諸将の言う事も、それぞれの義に当る。かくなるうえは、拙者が敵陣に乗り込み、みんなの意見を伝え、黒田如水(黒田官兵衛)の意向を聞いてきます」と提案した。
そして、平野勘左衛門は城壁の上から「ただいま、城中から敵陣に申すことがあり、平野勘左衛門という者を城から出すので、しばらく、攻撃を止めてください」と叫ぶと、黒田軍は攻撃を止めて平野勘左衛門が安岐城から出て来るのを待った。
敵の攻撃が止んだので平野勘左衛門は1人で安岐城を歩み出て、黒田如水(黒田官兵衛)の本陣を訪れると、熊谷外記の申し分や、諸将の申し分を黒田如水(黒田官兵衛)に伝えた。
すると、黒田如水(黒田官兵衛)は「熊谷外記の申すこと、残る諸将の申すこと、いずれも神妙の至りである。私が安岐城を包囲するのは、人を殺すためではない。帰服しない者を平らげ、徳川家康に属させる為である。今、悉く降伏すれば、熊谷外記を始め城中の者は1人も殺さない。そのうえ、我に仕えたいと思う者には、即、本領を与え、ただ今より召し抱える。他家に奉公の望みがある者は、心に任せて他家に行けばよい。城にある財貨雑具などを自由に持ち出すことを許す。その方、急いで城中へ戻り、この旨を伝えよ」と答えた。
平野勘左衛門が安岐城に戻って、黒田如水(黒田官兵衛)の意向を伝えると、熊谷外記らは黒田如水(黒田官兵衛)の考えに感じ入り、その日のうちに安岐城を明け渡して降伏した。
こうして、安岐城は慶長5年(1600年)9月19日に降伏し、多くの者は黒田如水(黒田官兵衛)に仕えた。
しかし、熊谷外記は「主人・熊谷直陳(熊谷直盛)へ何も言わず、黒田如水(黒田官兵衛)に仕えることは本意にあらず」と言い、黒田如水(黒田官兵衛)に暇を乞うて上方へと上った。
ところが、熊谷直陳(熊谷直盛)は関ヶ原の戦いのとき、西軍に属して大垣城で籠城していたが、一緒に大垣城で籠城していた相良頼房、秋月種長・高橋元種らに暗殺され、慶長5年(1600年)9月16日に死んでいた。
このため、熊谷外記は再び九州へ降り、黒田如水(黒田官兵衛)に仕えた。黒田如水(黒田官兵衛)は熊谷外記を異母弟・黒田養心(黒田修理亮)に預けた。
さて、こうして安岐城を開城させた黒田如水(黒田官兵衛)は、安岐城に数日間、留まった後、豊後にある富来城(大分県国東市国東町富来浦)へと兵を進めたのであった。
実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)と富来城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。