中川秀成と臼杵城の太田一吉-佐賀関の戦い

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公となる黒田官兵衛の生涯を実話で描く実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「中川秀成と臼杵城の太田一吉の戦い-佐賀関の戦いのあらすじとネタバレ」です。

このページは「黒田如水と富来城の戦い-黒田水軍と島津水軍の戦いのあらすじとネタバレ」からの続きです。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレ目次は「実話-軍師・黒田官兵衛(黒田如水)-あらすじとネタバレ」をご覧ください。

■中川秀成と
朝鮮出兵の時に敵前逃亡した大友義統が改易された後、大友義統の家臣・田原紹忍と宗像掃部の2人は、豊後にある竹田城(大分県竹田市)の城主・中川秀成に身を寄せ、中川秀成の与力となっていた。

関ヶ原の合戦のとき、大友義統は西軍・石田三成から旧領土の豊後・杵築6万石を拝領して挙兵すると、大友義統の旧家臣が四方より駆けつけ、大友義統の軍勢は3000に膨れあがった。

竹田城の城主・中川秀成の与力となっていた田原紹忍と宗像掃部の2人も、中川秀成に暇を乞い、大友義統の元に馳せ参じた。

このとき、田原紹忍と宗像掃部の2人は、中川秀成の旗を盗み出しており、中川秀成の旗を使って「中川秀成も大友義統に加勢する」と言って、大友義統の軍勢を勢いづけた。

さて、竹田城の城主・中川秀成は、西軍に属しつつも日和見をしていたが、大友義統が石垣原の戦いで黒田軍に負けると、東軍へと転身した。

しかし、与力だった田原紹忍と宗像掃部の2人が中川秀成の旗を使って「中川秀成も大友義統に加勢する」という噂を流しており、黒田如水(黒田官兵衛)がこの噂を徳川家康に報告したため、中川秀成は徳川家康から西軍の嫌疑をかけられていた。

中川秀成は徳川家康に使者を派遣して弁明したが、徳川家康の疑いは解けず、徳川家康は肥後・熊本城(熊本県熊本市)の加藤清正に中川秀成の討伐を命じた。

このとき、肥後(熊本県)北部を領土とする加藤清正は、肥後南部を領土とする西軍・小西行長の宇土城を攻めていたため、徳川家康に「真偽を確かめてから、中川秀成を討伐します」と答えて、中川秀成の討伐を後回しにした。

このため、猶予が出来た中川秀成は肥後・熊本城の城主・加藤清正に人質を差し出して弁明に奔走した。そして、中川秀成は西軍の疑いを晴らすため、西軍の臼杵城(大分県臼杵市)を攻め落とすことにしたのである。

一方、大友義統の元に駆けつけていた田原親賢は、大友義統が黒田如水(黒田官兵衛)に降伏すると、中川秀成の船奉行・柴山勘兵衛(柴山重成)の元へ身を寄せていた。

中川秀成は西軍の臼杵城を攻め落とすことを条件に田原親賢の帰陣を許すと、東軍であることを徳川家康に示すため、慶長5年(1600年)9月28日に出陣して西軍の臼杵城を攻めたのである。

他方、臼杵城(大分県臼杵市)の城主・太田一吉は関ヶ原の合戦のとき、病気と称して臼杵城に残り、息子の太田一成を西軍に派遣して、西軍に属していたが、甥の太田政成を東軍に派遣していた。

太田一吉は黒田如水(黒田官兵衛)と親しかったが、石田三成ともつながりが強かったため、旗色を明確にしておらず、中川秀成に攻められることとなった。

黒田如水(黒田官兵衛)は、臼杵城の城主・太田一吉と親交があったので、太田一吉の立場を理解していたのであろう。黒田如水は中川秀成に使者を送って「太田一吉は既に降伏しているので、攻撃を中止するように」と命じた。

しかし、中川秀成は身の潔白を徳川家康に示す必要があるので、黒田如水(黒田官兵衛)の命令を聞かず、臼杵城へと侵攻した。

臼杵城の城主・太田一吉は戦わずに黒田如水(黒田官兵衛)が来たら降伏しようと思っていたが、攻めてきたのが格下の中川秀成だったため、「中川秀成に下っては恥ある」と言い、城を出て中川秀成を迎え撃った。

そして、両軍は慶長5年(1600年)10月3日、佐賀関(大分県大分市佐賀関)で激突した。激戦に次ぐ激戦で、田原親賢が鉄砲で撃たれて戦死するなど多くの被害を出し、中川秀成は太田一吉を攻め落とせなかった(佐賀関の戦い)。

そこで、中川秀成は臼杵城の城主・太田一吉に開城を求めると、太田一吉は「関ヶ原で味方が破れた以上は、城を明け渡すのは当然である。しかし、中川秀成に明け渡したのであれば、攻め落とされたように思えて無念である。黒田如水(黒田官兵衛)なら名将なので、城を明け渡しても恥では無い」と答えた。

中川秀成は再度、明け渡しを求めたが、臼杵城の城主・太田一吉は「黒田如水(黒田官兵衛)であれば、城を明け渡す」と中川秀成への明け渡しを拒否した。

そこで、中川秀成が黒田如水(黒田官兵衛)に報告すると、黒田如水は富来城を包囲中で手が離せなかったので、東軍に属していた太田政成(太田一吉の甥)を名代として臼杵城へ派遣し、太田一吉から臼杵城を受け取った。

こうして、中川秀成は佐賀関の戦いで田原親賢など230人以上が戦死する被害を出したため、徳川家康は疑いを晴らし、中川秀成の本領を安堵した。

■角牟礼城と日隈城
続いて、黒田如水(黒田官兵衛)は、栗山四郎右衛門(栗山善助)に一軍を与え、豊後にある角牟礼城と日隈城の両城を攻めた。

角牟礼城と日隈城は、豊後・日隈2万石の大名・毛利高政の城であった。毛利高政は西軍として関ヶ原の合戦に参加していたが、途中で東軍に寝返ったので、栗山四郎右衛門(栗山善助)が城を包囲すると、角牟礼城も日隈城も開城した。

その後、黒田如水(黒田官兵衛)は、富来城を開城・降伏させて豊後(大分県)を平定し、九州を平定するため、豊前(福岡県)の小倉へと侵攻したのであった。

実話「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」のあらすじとネタバレの九州の関ヶ原の戦い編「黒田如水(黒田官兵衛)の香春岳城の戦い-小倉城の戦いのあらすじとネタバレ」へ続く。

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